Johann Schobert

パリの人気作曲家
西方への大旅行に出発したモーツァルト一家がパリに到着したのは、1763年11月のことでした。
当時パリは、ロンドンと並んでヨーロッパで最大の音楽都市でした。ヴェルサイユ宮殿のルイ15世の宮廷は滅びの前の輝きを見せ、宮廷やサロンにはたくさんの音楽家が出入りしていたようです。レオポルドの手紙によれば、ドイツ人音楽家も目立っていたということで、ヨハン・ショーベルト、ヨハン・ゴットフリート・エッカルトレオンツィ・ホーナウアーなどの名前が挙げられています。中でもヨハン・ショーベルト(Johann Schobert 1735?−67)は、あちこちのサロンで引っ張りだこの人気作曲家でした。シュレジアに生まれたとか、アルザス地方出身とも言われ、その前半生はよくわかっていませんが、1760年か1761年にパリに来たようで、当時のパリで最も有力な貴族、コンティ公に召し抱えられ、頭角を現しました。その作品はパリのほかロンドンやアムステルダムでも出版され、もてはやされましたが、好物の茸を食べて中毒にかかり、家族ともども亡くなりました。
ショーベルトの作品
ショーベルトのソナタのうち、約半分を「ヴァイオリン伴奏つきでも演奏できるクラヴィーアのためのソナタ」と呼ばれる曲集が占めています。
奇妙なタイトルですが、本来はクラヴィーアのための作品で、任意でヴァイオリンの伴奏がつく、というタイプの作品です。モーツァルトは、彼のこのジャンルに触発されて、1764年にパリで同じジャンルのソナタ( KV 6−9)を出版しています。ショーベルトの代表作、作品14の曲集の中から第3番を見てみますと、第1楽章アレグロ・モデラートにはヴァイオリンのパート譜がなく、クラヴィーアだけの演奏が予定されていますが、第3楽章のメヌエットでは、ヴァイオリンは旋律の一部を受け持ち、クラヴィーアだけではやや空疎な感じを与えます。作曲者の指定ではヴァイオリンの伴奏は任意ですが、恐らくヴァイオリンのパートがある部分についてはヴァイオリン伴奏つきの演奏が想定されていたのではないかと思われます。
クラヴィーアのパートを見ると、左手はアルベルティ・バス、3連符、ムルキー・バスなどで専ら伴奏を受け持ち、その上に、頻繁に装飾された3連符や16分音符の細かい旋律がさまざまに変化しながら通り過ぎます。しかしこのソナタの第1楽章のように、最初から最後まで符点音符の同じ音型が延々と続くと、パッセージの工夫によって気分や色彩が微妙に変化しているにもかかわらず、音楽の流れは冗長になり、弾く方も聴く方も疲れてしまうことは確かです。

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