Giovanni Battista Sammartini

シンフォニーの大家
ンフォニーの大家
ジョヴァンニ・バティスタ・サマルティーニ (Giovanni Battista Sammartini 1700? - 75) は、18世紀半ばに活躍したイタリアの作曲家です。
18世紀の著名なイタリア人音楽家は、アルプスを越え、ヨーロッパ各地を訪問し、各国の宮廷に雇われる人が多かったのですが、サマルティーニはその生涯の大半をミラノで送った音楽家です。
当時ミラノはヨーロッパにおける音楽の中心都市のひとつで、ドイツなどからも音楽家たちが勉強に来ていました。大バッハの末の息子、ヨハン・クリスティアン・バッハは、カトリックに改宗し、ミラノ大聖堂のオルガニストを7年間つとめていますが、この間に彼はサマルティーニから大きな影響を受けたものと思わます。
サマルティーニは、最初は教会音楽の作曲家としてスタートしましたが、サマルティーニの名前を不動のものとしたのは、シンフォニー、コンチェルトなどのオーケストラ作品です。ハイドンとともにシンフォニーの様式を確立し、この分野で優れた作品を残した作曲家として知られます。
サマルティーニは、1730年代からシンフォニーを書き始め、晩年の1770年代までシンフォニーをつくり続けました。今日、70曲前後のシンフォニーが知られており、初期の作品はバロック音楽の雰囲気を残していますが、後期の作品になると、規模が大きくなり、管楽器も縦横に活躍します。ハイドンのシンフォニーが、第3楽章にメヌエットを配した4楽章形式のものが多いのに対し、サマルティーニは、3楽章形式を好んだようです。
室内楽の分野では、トリオ・ソナタ、カルテットが多いようですが、晩年の1773年に書かれたト長調のクインテットを聴きますと(harmonia mundi 1901245)、さすがに大家の晩年の心境を表しているのでしょうか、どこか悠揚としていて落ち着いた伸びやかさがあるように思います。しかし、そこにはモーツァルトにあるような「歌」の要素が少ないように思えます。オペラ作曲家ではなかったせいかもしれません。
モーツァルトとの出会い
兄のジョゼッペ・サマルティーニも音楽家で、ロンドンなどで活躍しました。 モーツァルトが父レオポルトに連れられ、初めてミラノを訪れたのは、1770年1月23日、まもなく14歳になろうとしていた時期でした。
当時ミラノを中心とするロンヴァルディア地方はオーストリア領で、総督はマリア・テレジアの皇子フェルディナンド大公でした。モーツァルト父子は、フェルディナンドの総督府長官カール・ヨーゼフ・フィルミアーン伯爵(右の肖像)の館でサマルティーニに会っています。
モーツァルトはミラノ郊外のローディで最初の弦楽四重奏曲ト長調K80を作曲していますが、アインシュタインのようにサマルティーニの影響を指摘する向きもあります。またモーツァルトは、この後、第3回イタリア旅行(1771年秋から1773年春)中に、6曲のカルテットが作曲していますが、この作品にもサマルティーニの影響が指摘されています。


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