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- 成功と名声
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ジョヴァンニ・パイジェルロ (Giovanni Paisiello 1740 - 1816)は、18世紀後半のヨーロッパの音楽世界でもっとも成功し、名声を博したイタリア人作曲家です。モーツァルトと同じように、オペラを中心に活躍し、器楽音楽の分野でも数多くの作品を残しました。
モーツァルトとも親交がありました。モーツァルトがパイジェルロに会ったのは、1770年5月。パイジェルロの出身地、ナポリを訪れたときのことです。
モーツァルトは、ザルツブルクの大司教と決裂してウィーンに移り住んだ年のクリスマスイヴに皇帝ヨーゼフ2世に宮殿に招かれ、当時ウィーンを訪れていたロシア大公夫妻の前でクレメンティと競演しますが、このときロシア大公妃から渡されたスコアがパイジェルロのソナタでした。モーツァルトとクレメンティは、パイジェルロのソナタを分担して弾き、さらにそれぞれこのソナタの中の主題を展開して弾いたといいます。パイジェルロは、ロシアの宮廷に宮廷楽長として招かれて滞在しており、ロシア大公夫妻はパイジェルロの有力なパトロンでした。
翌々年の1783年3月23日、モーツァルトは、ウィーンのブルク劇場でコンサートを開催。このコンサートには皇帝ヨーゼフ2世も臨席し、成功を収めますが、モーツァルトはこのとき、パイジェルロのオペラ「哲学者気取り、または星の占い師たち」の中の「主よ幸いあれ」のテーマをもとに即興で変奏曲を弾いています。
この曲は、1786年にアルタリアから出版され、KV398(416e)として整理されています。
一方1784年ロシアを後にしたパイジェルロは、ウィーンに立ち寄ります。1784年6月10日、モーツァルトのクラヴィーア協奏曲ト長調KV453が、弟子のプロイヤー嬢によって初演されましたが、モーツァルトは、ウィーンに滞在していたパイジェルロにこれを聴いてもらうために馬車で迎えに行っています。尊敬していたのかどうかはわかりませんが、一目置いていたことは確かでしょう。
- 悲劇的な最期
- ジョヴァンニ・パイジェルロは、南イタリアのターラントの近くで生まれ、ナポリで頭角を現しました。ナポリは当時イタリア最大の都市で、オペラの中心でした。ナポリは、18世紀のはじめはオーストリアのハプスブルク家が支配していましたが、1735年のウィーンの和約により、ブルボン家のスペイン国王に支配権が移り、モーツァルトがナポリを訪れたときの国王は、フェルディナント4世でした。14歳のモーツァルトは、フォエルディナント4世の粗野な振る舞いに対し、皮肉を込めた観察を書き残しています。
パイジェルロはナポリでオペラなどを作曲し、その名はイタリアの外でも知られるようになります。パイジェルロに注目したロシアの女帝エカテリーナは彼をロシアに招くことにし、1776年から1784年までサンクト・ペテルスブルクに滞在して宮廷楽長として活躍しました。
1784年、ウィーンなどを経由して帰国し、ふたたびフェルディナント4世に仕えますが、フランス革命後の混乱の中で1799年、革命が勃発。共和国政府が出来ると、パイジェルロは、フェルディナント4世を裏切るのですが、革命が短命に終わり、王党派が勝利すると、彼は《テ・デウム》を持って国王のもとにかけつました。しかしナポレオンのフランス軍が戻ってくるとまたもやフェルディナンド4世を裏切ってパリに赴き、ナポレオンのために教会音楽やオペラを作曲しました。ナポレオンの敗北に伴い、フェルディナント4世はふたたび復帰し、パイジェルロは追放され、まもなく不遇と貧困のうちにその生涯を終えました。
- オペラのほかにクラヴィーア協奏曲も作曲
- パイジェルロは代表作《セビリアの理髪師》をはじめとする90を越すオペラを作曲する一方、交響曲、室内楽、クラヴィーア・ソナタなどを作曲しました。クラヴィーア協奏曲も8曲が残されており、うち2曲はロシア滞在中に作曲され、6曲は、ナポリに戻ってからパルマの王女のために作曲したものです。
これらのクラヴィーア協奏曲を聴くと、モーツァルトが同じ時期に書いた後期のクラヴィーア協奏曲のような深みと精神性には欠けるものの、かなり達者な作曲家だったことが窺えます。例えばイ長調の曲では、第1楽章アレグロは効果的に半音階を使いながらも音楽の流れは闊達かつ自然で、ちょうどオペラの場面転換のように切れ目なくラルゴの第2楽章に入っていきます。
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