Muzio Clementi


ロンドン楽壇の大御所
ムツィオ・クレメンティ(Muzio Clementi 1752 - 1832)は、ローマの銀細工師の息子として生まれました。9歳の時には早くもオルガニストとなりましたが、14歳のときイギリスに渡り、ロンドンでチェンバロなどの鍵盤楽器奏者、作曲家としてデビューしました。クレメンティは、ピアノのためのソナタ、交響曲、協奏曲、室内楽を書きましたが、作曲のみならず、楽譜の出版、ピアノの製造など幅広い音楽ビジネスの世界で成功を収めました。
自分が作曲した作品を楽譜として出版し、できるだけ沢山の人に弾いて貰おうと考えたのでしょう。やがてピアノの製作にも乗り出します。ピアノを大いに普及させて、彼自身の作品を彼自身の出版社で出版し、彼自身の会社の楽器で弾いて貰うという、相互に密接に関連した仕事のやり方を作り上げたわけです。できるだけ沢山の人に弾いて貰うためには、初心者にも簡単に弾ける作品も必要でした。
また、ピアノを学ぶ人のためのエチュードの作曲にも熱心でしたが、とりわけ全部で100曲から成る《グラドゥス・アド・パルナッスム》は、近代的なピアノ演奏技術を確立した、いわば彼のピアノ演奏思想を集大成したとも言える作品です。コンサートを定期的に開催する協会も設立し、文字通りロンドン楽壇の大御所として、長い音楽人生を送りました。
クレメンティの作品
クレメンティのたくさんのピアノ曲の中でとりわけ有名な作品が、「ソナチネ」です。ソナチネ・アルバムには、1798年に出版された作品36の6曲のソナチネが収められています。とりわけその第1番は、ピアノを学習される人なら誰でも一度は練習すされる曲でしょう。
しかし、クレメンティは、ソナチネだけの作曲家ではありませんでした。クレメンティはチェンバロやピアノのために作品を書いた時期は、半世紀以上にもわたっています。
また、その価値も決して二流ではありません。1784年に作曲されたと思われる、ヘ短調作品13の6のピアノ・ソナタは、ホロヴィッツの名演で知られまするが、ベートーヴェンの世界を先取りしているように思えます。全部の楽章が短調で書かれたこのソナタは、全体を厳しい緊張感が包み、同時に豊かな響きとしみじとした情感に溢れています。ホロヴィッツはクレメンティのピアノ・ソナタが好きだったようで、このほか、作品33の3、作品34の2などの作品を録音しています。
モーツァルトとの出会い
ウィーンの王宮クレメンティとモーツァルトとの出会いはただ1回だけで、それは不幸なものでした。
1781年の12月24日、皇帝ヨーゼフ2世は、王宮(右の絵)宮殿の一室でモーツァルトとクレメンティを引き合わせました。モーツァルトがまだウィーンに出てきたばかりの頃でした。モーツァルト自身の手紙によると、クレメンティはソナタを1曲弾き、モーツァルトは何か変奏曲を弾き、その後、かわるがわるそのとき与えられた曲を弾いたりしたようです。
競演が終わった後の二人のお互いの印象は対照的でした。モーツァルトはお父さん宛の手紙の中で、「クレメンティは、素晴らしいチェンバロ弾きだが、単なるいかさま師で、趣味や感情のひとかけらも持っていません。要するに彼は単なる機械的演奏家なのです。」と手厳しく批判しましたが、クレメンティの方は、モーツァルトのこのときの演奏について後に「私は、あのときまであれほど魂のこもった優美な演奏を聴いたことがなかった」と回想しています。
クレメンティがこのときひいたソナタは、 作品47の2 でしたが、モーツァルトはこの曲の第1楽章のテーマを拝借し、オペラ魔笛の序曲を作曲したのでした。この引用について、クレメンティを嘲り、皮肉ったのだという見方もあります。

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