Baldassare Galuppi

オペラ・ブッファの大家

バルダッサーレ・ガルッピ(Baldassare Galuppi 1706 - 1785)は、18世紀にヴェネツィアを中心に活躍したイタリアの作曲家です。
生家は貧しかったようですが、ヴェネツィアで大家、ベネディット・マルチェルロに出会い、その教えを受けました。フィレンツェのオペラ劇場でチェンバリストとして働いた後、ヴェネツィアに戻り、オペラの作曲を始めます。
ヴェネツィアには、この都市に特有の施設《オスペダーレ》がありました。「施療院」や「救貧院」とも訳されるこの施設は、もともとは貧しい人たちや孤児を対象とした収容施設でしたが、中世の後期には音楽教育が行われるようになり、音楽家がその指導に当たりました。ガルッピは、ヴェネツィアに戻ってからオペラを次々に上演して頭角を顕し、1740年にこのオスペダーレの音楽監督に任命され、1762年には聖マルコ大聖堂の楽長に就任しています。
オペラの分野では、オペラ・セリア《ドリンダDorinda 》(1729年)で成功して、ヴェネツィアにおける地位を確立しますが、何と言っても、ガルッピの名を後世の残したのは、劇作家カルロ・ゴルドーニと組んだオペラ・ブッファです。
《ブレンタのアルカディア L'Arcadia in Brenta 》(1749年)で成功を収め、1754年の《田舎の哲学者Il filosofo di campagna 》が代表作となりました。
ガルッピの名声は次第に高まり、その存在に着目したロシアのエカテリーナ女帝は、1765年、ガルッピを破格の待遇でサンクト・ペテルスブルクに招き、音楽教育に当たらせました。
1768年には、ロシアからヴェネツィアに戻ったと考えられており、1770年にヴェネツィアに訪れたチャールズ・バーニーは、ガルッピのことを「優れたチェンバリスト」と記しています。
モーツァルト父子は、1771年の2月から3月にかけてヴェネツィアに滞在しており、この時期、ガルッピはすでにロシアから戻ってきていましたが、モーツァルト父子の手紙にはガルッピの名前は出てきません。

ガルッピのクラヴィーア作品
オペラ・ブッファの世界で活躍したガルッピは、クラヴィーア音楽の分野では100曲前後のクラヴィーア・ソナタを作曲しています。
ガルッピのクラヴィーア・ソナタの多くは筆写譜の形で残されているため、楽章構成や作曲年代もよくわかっていないものも多いようです。しかし生前に出版されたものもあり、ザルツブルクのモーツァルト家にもあったニュルンベルクのハフナーによる曲集には、ガルッピのクラヴィーア・ソナタも収められていましたから、モーツァルトはハフナーの全集を通じて、幼少の頃からガルッピのソナタを知ることができました。
その中の一つ、ハ短調のソナタを見ると、第1楽章はラルゲット、第2楽章はアレグロ、第3楽章はアレグロ・アッサイと、段々テンポが速くなっています。このやり方は、ほかのソナタでもしばしば見られます。
ガルッピのソナタは、全体的に楽章の数や配置、テンポなどの面でいろいろなやり方が見られ、かなり自由なスタイルが特徴です。アルベルティ・バスなどの伴奏に乗ってテーマが軽やかに歌われる、「歌うアレグロ」のスタイルも見られ、これらの楽章ではいかにもイタリア風の優雅な旋律が流麗に動き回ります。その一方、突然曲想が変化したり、大胆な転調が時折現れるなど、自然な音楽の流れを持ったモーツァルトの音楽とは異なる色合いを持っているように思えます。
いずれにしてもガルッピのソナタを幾つか続けて弾くと、その豊かな表情に驚かされます。抑揚の利いた明るい歌は、イタリアの澄み切った青空を思わせますし、アレグロ・アッサイやプレストの急速な楽章は、ステージの上の軽やかなダンスそのものです。短調の楽章はしばしば底深い嘆きや悲しみを湛え、優雅なラルゲットは尽きることのない憧れを表しているかのようです。その多彩な表情は、抑制のきいた喜怒哀楽を表現しているような気がします。

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