Giuseppe Bonnno

ウィーンの宮廷楽長
ジュゼッペ・ボンノ (Giuseppe Bonnno 1711 - 1788)は、ウィーンで生まれ、ウィーンで活躍したイタリア人家系の音楽家です。幼少の頃、ウィーンで音楽教育を受けましたが、当時の音楽の本場、ナポリで勉強してウィーンに戻り、ハプスブルク家の宮廷音楽家となりました。
1739年には宮廷作曲家に、1774年には、宮廷楽長ガスマンの死去に伴いその後任に昇進しました。そして、皇帝ヨーゼフ2世(右の肖像)の宮廷で活躍しました。
私はボンノの作品を聴いことはありませんが、ミサ、オラトリオ、レクイエム、合唱曲などを作曲したようで、メタスタージョと組んで、いくつかのオペラも作曲したようです。


ボンノの人間像
モーツァルト生誕250年の頃に封切られた映画 『アマデウス』 では、宮廷楽長ボンノは、太っていて下品な人物として描かれていました。
そして、ドイツ語でオペラの上演を考える皇帝ヨーゼフ2世に向かって、「ドイツ語は下品な言葉です」とまで言い切り、ひたすらイタリア語によるオペラ上演にこだわる、偏狭で保守的な音楽家としてとらえています。しかし白水社の『モーツァルト書簡集』の解説では、立派な音楽家だったとしており、どうもボンノの実像は定かではないようです。
モーツァルトは、コロレド大司教(右の肖像)の指示でウィーンに呼びつけられて間もない1781年4月11日、「もしボンノが死ねば、サリエリが楽長になるでしょう」と手紙に書いていますが、まさにそのとおり1788年にボンノが死去すると、サリエリがその後釜に収まりました。
ガスマン、ボンノ、サリエリと続く、ウィーンにおける宮廷音楽家「本流」の系列は、モーツァルトがウィーンで活躍する場面を狭めたことは間違いないようです。しかしボンノがモーツァルトにつらく当たり、モーツァルトがボンノを嫌っていたかどうかはよくわからないようです。

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