Christian Cannabich

マンハイム楽派

ファルツ選帝侯、カール・テオドールは、1720年、宮廷をハイデルベルクからマンハイムに移します。
壮麗な宮殿(左の写真)を建設したカール・テオドールは、ヨーロッパ中から優秀な音楽家を集め、宮廷楽団を編成しました。
そしてこの楽団のための交響曲、協奏曲、室内楽などの作品が求められたのですが、これらの作品を独自の作風で次々に作曲していったのが、マンハイム楽派の作曲家たちです。
マンハイム楽派の作風を確立したのは、ヨハン・シュターミッツ(1717−57)で、宮廷楽団の首席ヴァイオリン奏者として楽団を率いるとともに、交響曲をたくさん作曲しました。
大胆な強弱を用いたダイナミックは作風は、パリでも愛好されました。
ヨハン・シュターミッツの息子カール・シュターミッツ(1745−81)も、マンハイムの楽団で活躍しました。
そして、次の世代のマンハイム楽派を代表する音楽家が、クリスティアン・カンナビッヒ(Christian Cannabich 1731 - 98)です。

マンハイムの宮殿
約70曲の交響曲
1777年秋、マンハイムを訪れたモーツァルトは、毎日のようにカンナビッヒの家を訪れて、一緒に演奏したり、食事をごちそうになっています。その馬鹿騒ぎぶりは、ザルツブルクの父レオポルトに宛てた次の手紙からも窺えます。

「私こと・・・モーツァルトは、(以前にもたびたび)深夜12時に帰宅いたし、しかも、10時より前記の時刻まで、カンナビヒの家で、カンナビヒ、同夫人と令嬢、財務長官殿、ラム、ラング氏らの面前で、ともどもに、しばしば、しかも ― いやいやでなくて、まったく浮き浮きと、それもただただ落ちる雷、つまり、ウンコとか、クソたれとか、シリナメとかで語呂遊びをいたしましたことの罪状をここに告白いたします」 (モーツァルト書簡全集3・白水社)

クリスティアン・カンナビッヒカンナビッヒには、13歳の娘ローゼがおり、モーツァルトは彼女のためにピアノフォルテのレッスンを施し、その模様は、モーツァルトの演奏観を示す貴重な手がかりとなっています。
このころ書かれたハ長調KV309のピアノ・ソナタは、ローザのために作曲され、その第2楽章は、彼女の雰囲気をイメージしてつくったと記しています。

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