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- ドイツ人オペラ作曲家
- ヨハン・アドルフ・ハッセ (Johann Adolf Hasse 1699 - 1783)は、18世紀にもっとも名声を博したドイツ人オペラ作曲家です。
ハンブルクに近い小さな村で、音楽家の家系に生まれ、合唱隊に入りますが、すぐに頭角を現し、リューネブルクの宮廷歌劇場で最初のオペラ 「アンティゴノス」を作曲しました。
二十代の半ばでイタリアに赴き、当時イタリア・オペラの中心、ナポリの歌劇場を中心に活躍するようになります。1726年に初演された「セソストラート」で、ハッセの名前は知られるようになりました。
一時、ザクセン選帝候フリードリヒ・アウグスト1世(アウグスト強王)の招きで宮廷のあったドレスデンに滞在しますが、再びイタリアに赴き、ヴェネツィア、ロンドン、ウィーンなど、ヨーロッパ各地で活躍しました。ヴェネツィアではオスペダーレ(もともとは孤児を対象とした音楽院)で教えたりもしています。当時としては異例の長命で、妻の故郷ヴェネツィアで没しています。
ハッセは、一説によれば120曲にも及ぶオペラのほか、オラトリオ、カンタータなどをは残していますが、彼の作品は、今日ほとんど演奏されることはないようです。
- モーツァルトとオペラを競作
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モーツァルトは、少年時代からハッセと面識がありました。12歳のとき、モーツァルトは、ウィーンに赴き、オペラを上演しようとし、さまざまな妨害を受けますが、、当時すでにオペラ界の長老であったハッセは、モーツァルトのために推薦状を書いてくれています。
モーツァルトは、少年時代に3回にわたるイタリア旅行をしていますが、この旅行の中で、ハッセとさまざまな関わりを持つことになります。
マントヴァでは、ハッセのオペラ《デメートリオ》を観て、次のような感想を残しています。
「マントヴァのオペラはすてきでした。『デメートリオ』を上演していました。プリマ・ドンナはよく歌いますが、静止したきりです。演技しないでただ歌っているところだけを見たら、彼女が歌っているとは思えないでしょう。なにしろ、彼女は口を開けられないのですが、どんな音でもひーひーと出します。でも、こういうのは、ぼくらにとって耳新しいものではありません。」(1770年1月6日付の手紙 モーツァルト書簡全集U 60頁 白水社)
また、クレモナでもハッセのオペラ『ティート帝の慈悲』》を観ていますが、21年後、モーツァルトは、同じ題目で自ら作曲することになります
しかし何よりもモーツァルトとハッセとの関わりは、1771年10月に行われたミラノの総督フェルディナント大公とモデナ公国の王女との婚礼に当たって、オペラを競作したことでした。当時ミラノを中心とする北イタリアはオーストリアが支配し、総督フェルディナント大公は、女帝マリア・テレジアの皇子でした。このフェルディナント大公の婚礼に当たって上演される祝典劇が、モーツァルトとハッセの二人に依頼されたのです。とても名誉なことでした。当時モーツァルトは15歳。ハッセは70を過ぎていました。
1771年10月15日に大聖堂での婚礼があり、その後宮殿で祝宴が行われましたが、翌16日に、まずハッセ作曲による『ルッジェロ』が上演され、翌17日にモーツァルトの手になる『アルバのアスカーニョ』が上演されました。
『アルバのアスカーニョ』の上演は大成功で、『ルッジェロ』の評判を凌駕したと伝えられます。
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