Giovanni Marco Rutini

レオポルト・モーツァルトが絶賛
1771年夏、モーツァルト父子は二度目のイタリア旅行に旅立ち、目的地にミラノに向けて急いでいましたが、途中立ち寄ったヴェローナ)で、妻マリア・アンナにこう書き送っています。

「ところで、急いだので、私たちのために大いに尽してくれたミラノの親友にクラヴィーア・ソナタやトリオを2、3冊持ってくるのを忘れてしまったことをおまえに言わなければなりません。・・・だから、ナンネルは、トリオを二曲探し出さなければいけないが、・・・ヴォルフガングのハ調の小カッサシオン。そしてルティーニの見事なソナタをいくつか。たとえば、変ホ長調、二長調などです。ナンネルが自分で弾きたければ、こうした曲は持っていられます。というのは、これらの曲はニュルンベルクで版刻されたルティーニのソナタ集に入っているからです。」(1771年8月18日。モーツァルト書簡全集(白水社)第2巻p278)

レオポルドがこのように好意的な評価を下しているルティーニとは、当時クラヴィーア奏者としてもてはやされていたイタリア人音楽家、ジョヴァンニ・マルコ・ルティーニ (Giovanni Marco Rutini 1723 - 97)です。
レオポルトが書いているように、ルティーニのソナタは、モーツァルト家にあったハフナーの全集に入っていましたから、モーツァルトは子供の頃からルティーニの名前と彼のソナタを知っていたのは確実だと思われます。
イタリアの外で活躍
ルティーニは、主としてイタリアの外で活躍し、アルプスの北でもてはやされた音楽家でした。
1723年にフィレンツェで生まれ、ナポリで音楽教育を受けましたが、その後ドレスデン、プラハ、ベルリンなどで活動した後、1758年から61年まで、ロシアの宮廷の招きでサンクト・ペテルスブルクに滞在しています。
1762年にイタリアに戻ってボローニャに移り住み、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員になり、マルティーニ神父の指導を受けました。その後フィレンツェ、ヴェネツィア、ジェノヴァ、モディナに滞在した後、生まれ故郷のフィレンツェに戻って生涯を終えました。
このようにルティーニはヨーロッパ各地を渡り歩き、演奏、作曲活動を行いました。彼がそれぞれの土地で書いたクラヴィーア・ソナタは、当時とても人気があったようで、レオポルドの手紙にあるように、その多くがハフナーから出版されているほか、ウィーンのアルタリア社、ライプツィヒのブライトコプフ社からも出版されています。
またその作品は、ロシアのエカテリーナ女帝、オーストリアのマリア・テレジア女帝、ボローニャのマルティーニ神父、ハイドンが仕えたニコラウス・エステルハージー候などに献呈されており、彼が時代の寵児であったことが窺えます。
ルティーニのクラヴィーア・ソナタ
ルティーニはかなり長い音楽人生を送った人で、それだけにその作風はかなり大きな変遷を見せています。
初期、中期のソナタはチェンバロのために書かれ、1780年代に書かれた後期のソナタでは、ピアノフォルテも想定されていたと思われます。作風としては、どちらかと言えば、劇的な迫力も感じられる中期の作品の評価が高く、後期になると軽く、通俗的な作風になっていったようです。モーツァルト研究家のアインシュタインは、「おそらくルソーの《自然へ帰れ》に影響されて、1770年頃《単純》に、その実、浅薄に堕してしまう」とまで言い切っています。
クラビノーヴァを使っての演奏ですが、ニ長調作品3の1のソナタを弾いてみましたのでお聴きください。作品3は、6曲からなるチェンバロのためのソナタで、おそらく1750年代後半にプラハで作曲されたと考えられており、1757年頃に出版されたハフナーの全集に収められています。
この作品の冒頭には、幻想曲風の序奏が置かれており、この序奏も含めて弾いてみました。ソナタの序奏と言えば、モーツァルトの有名なハ短調KV457のソナタの前に置かれたKV475の幻想曲が有名ですが、ソナタの前にこのような序奏を弾く習慣がかなり前から行き渡っていたことが窺える作品です。

 ルティーニ:クラヴィーア・ソナタ ニ長調 作品3の1 序奏 (11KB)
 ルティーニ: 同  第1楽章  (18KB)
 ルティーニ: 同  第2楽章  (6KB)

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