Leopold Anton Kozeluch

作曲家兼出版社
レオポルト・アントン・コジェルフ(Leopold Anton Kozeluch 1747 - 1818)は、ボヘミア出身で18世紀後半から19世紀の初頭にかけてウィーンで活躍した作曲家です。
1747年6月20日、プラハの近郊で生まれ、プラハの大学で法律を学びましたが、音楽への道を志し、作曲を始め、バレー音楽などを作曲するようになります。
1778年、つまりモーツァルトがザルツブルクの大司教と決裂してウィーンに移り住む3年前にウィーンに移り住み、作曲家、クラヴィーア演奏家、音楽教師としての本格的な活動を始めました。モーツァルトの弟子でもあった盲目のピアニスト、パラディス嬢もコジェルフにクラヴィーアを習いました。
コジェルフは、ロンドンで活躍したムツィオ・クレメンティと同じように、ウィーンで楽譜の出版事業を行いました。彼の出版会社は1784年に設立され、イギリスの有名な出版会社のウェルシュなどと提携して幅広い作品を世に紹介しました。
1791年にモーツァルトが亡くなると、コジェルフはモーツァルトの跡を継いで、ウィーンの宮廷作曲家に任命されました。コジェルフは70歳で亡くなるまでウィーンで活発な活動を続けました。シンフォニー、室内楽、バレー音楽、宗教音楽など幅広い分野に及んでいますが、自身優れたクラヴィーア奏者であったこともあり、多数のクラヴィーアのための作品を残しています。古典派のソナタの研究家、ウィリアム・ニューマンによれば、100にも及ぶクラヴィーア・ソナタのほか、おそらくはそれ以上の数の伴奏付きソナタ、4手のためのソナタを書いたとされています。
私もいくつかのクラヴィーア・ソナタを弾いてみましたが、全体的に優雅で、味わい深いものがありました。その中で、ハ短調のソナタでは、やはり同じ調のモーツァルトのソナタが思い起こされ、残念ながらモーツァルトの深遠な世界とはほど遠いものがありました。ハ短調でありながら、終楽章は、これ以上ないくらいに明るく、ちょっとびっくりしました。
コジェルフは小品もたくさん残しており、とりあえず、「パストラル」と題された小品を入れてみましたので、お聴きください。

 レオポルト・アントン・コジェルフ: パストラル  
モーツァルトとの関わり

ジェルフとモーツァルトは、ウィーンで同じ時代を過ごしました。或る意味でライバルだったわけですが、必ずしも敵対関係にあったわけではないようです。モーツァルトは、自作のクラヴィーア・ソナタをコジェルフのところで出版させるとして、次のような手紙を残しており、この中に、モーツァルト最後のピアノ・ソナタとなったニ長調KV576が含まれていたという見方もあります。

「差し当たって、フリーデリーケ王女のためのやさしい6曲のクラヴィーア・ソナタと、国王のために6曲の四重奏曲書いていますが、これはすべて私が自費でコジェルフのところで出版させます。そのほか2曲も献呈するものがあり、それもなにがしかの収入になります。2,3ヶ月もすれば、御存知の件で私の運命は決まっているに違いありません。ですから、最上の友よ、あなたは私に対してなんら危険を冒すことにはならないのです。そこで、唯一の友よ、あなたがもう500フローリンお貸しくださろうとなさるか、あるいはお貸しくださるかどうかは、かかってあなたのお気持ち次第なのです。」(1789年7月12日。モーツァルト書簡全集(白水社)第6巻p529)

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