ウィーン 3

1773.3.13 - 7.14

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モーツァルトの旅 1
モーツァルトの旅 2
モーツァルトの旅 3
ザルツブルク 5
ヴェロナ 3
ミ ラ ノ 3
ザルツブルク 6
ボルツァーノ 2
ミ ラ ノ 4
ヴェロナ 4
ザルツブルク 7
ウィーン 3
ザルツブルク 8
ミュンヘン 3
ザルツブルク 9
ミュンヘン 4
アウグスブルク 2
マンハイム 1
パ リ 4
サン・ジェルマン
パ リ 5
ナンシー
ストラスブール
マンハイム 2
カイスハイム
ミュンヘン 5
ザルツブルク 10
ミュンヘン 6
モーツァルトの旅 4
ラクセンブルク城
17歳のモーツァルトにとってウィーンを訪れるのは3回目でした。
1770年代のウィーンは、人口などの規模では、ロンドン、パリ、ナポリなどには及びませんでしたが、、ハプスブルク家が君臨していた神聖ローマ帝国の首都として賑わい、さまざまな民族が暮らす国際都市でした。
1765年に女帝マリア・テレジアの共同統治者であったフランツ1世が亡くなり、長男のヨーゼフ2世が即位して女帝と共同統治していました。モーツァルト父子は、ウィーンの中心から南に約16キロのところにあった、ラクセンブルクの城(右の写真)に女帝を訪ねています。
レオポルドによれば、女帝はモーツァルト父子にとても好意的でしたが、ただそれだけのことだったようです。おそらくレオポルドは、モーツァルトがウィーンの宮廷で就職できるよう働きかけたのでしょうが、女帝は曖昧な態度をとったものと思われます。
ラクセンブルク城
ラクセンブルクの城は、現在、国際応用システム分析研究所(IIASA)のオフィスとして使われています。IIASAは、1972年に発足した政策研究を行う機関で、東西冷戦が終焉するまでは、東側の主要国と西側の主要国が参加する珍しい存在だったようです。
右の写真は、「エリザベートの部屋」と呼ばれている部屋で、最後のオーストリア皇帝の皇后で悲劇の主人公として知られる、エリザベートが寝室として使っていた部屋です。この部屋には、マリア・テレジア女帝の大きな肖像画が掲げられています。

(上と右の写真は、国際応用システム分析研究所(IIASA) からお借りしています。)



17歳の作品
就職はうまくいきませんでしたが、モーツァルトは、ウィーンのオペラ、交響曲、室内楽などに触れ、それらに触発されてみずみずしい作品を書いています。
このときモーツァルト父子にあれこれ世話を焼いてくれたのが、催眠療法で知られるメスマー博士でした。
メスマー邸は、プラーターの森(右の絵)を望める広大な邸で、メスマー邸ではよくコンサートも開かれていたようです。
モーツァルトがこのウィーン滞在中に、ヨーゼフ・ハイドンに会ったかどうかはわかりませんが、ハイドンの作品20の弦楽四重奏曲を知ったことは確実で、その影響のもとに、6曲の弦楽四重奏曲 ― いわゆる「ウィーン四重奏曲」(K168 ― K173)が生まれました。
また、アントニオ・サリエリ のオペラ《ヴェネツィアの市》を知り、その中のアリアかヴァイオリンの声部でをテーマにして、クラヴィーアのための変奏曲を書いています。

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