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- ナンシーの広場
- 父レオポルドとのすれ違いのまま、慌ただしくパリを旅立ったモーツァルトは、乗合馬車でナンシー(Nancy)に向かいました。
パリを発ってからは、毎日朝の4時に出発するという行程で、しかも、乗り合わせた乗客は梅毒に罹っていて、モーツァルトはあからさまな嫌悪感を露わにしています。
ナンシーは、モーツァルトにとっては、なじみのない街でした。見知らぬ土地にいることの不安を語っていますが、同時に、この街が気に入ったようです。
「もし、ぼくがここで知られているなら、よろこんでここに留まりたいと思います。なぜって、それほど町は魅力的です。 ― 美しい家々、きれいな広い街路、そしてすばらしい広場。
― 」(1778年10月3日付けの手紙)
ナンシーは、モーツァルトが記しているように、素敵な広場で知られています。スタニスラス広場、カリエール広場、アリアンス広場は、18世紀につくられ、世界遺産に登録されています。
下の写真は、スタニスラス広場(Places Stanislas)です。この広場の名前は、18世紀初期に国王ルイ15世からこの地方を与えられたスタニスラス公からとられました。スタニスラフ公レシチニスキ(
1677 - 1766)は、かつてのポーランドの国王で、娘はフランス国王ルイ15世の妃マリー・レクザンスカでした。モーツァルトが、ルイ15世夫妻とヴェルサイユ宮殿で食事をともにしたことは、モーツァルトの旅1 ヴェルサイユ でも触れました。
- 凱旋門
- ナンシー一帯の地域は、18世紀まロートリンゲン公国で、神聖ローマ帝国に帰属していました。ロートリンゲン公シュテファン(Franz Stephan
von Lothringen, 1708 - 1765)は、オーストリア帝国ハプスブルク家の皇女マリア・テレジアと婚約しましたが、フランスなどが反発し、ロートリンゲン公国は以前のポーランド国王スタニスラフに譲って、実質的にフランス領となり、オーストリア帝国は、イタリアのトスカナ公国を獲得しました。
シュテファンは、フランツ1世として即位し、女帝マリア・テレジアとの共同統治を行いました。
スタニスラフ広場にある凱旋門は、ルイ15世を讃え、1756年に建設されました。
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