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- ザルツブルクの寵児?
- 1775年3月初旬、ミュンヘンからザルツブルクに戻ったモーツァルトは、マンハイム・パリへの大旅行に出発するまでの約2年半をザルツブルクで過ごします。
神童時代から頻繁に演奏旅行を繰り返してきたモーツァルトがこのように長期間ザルツブルクに滞在したのは、これまでにないことでした。寛大だった前任のシュラッテンバッハ大司教とは異なり、コロレド大司教が外への旅行を許さなかったのかしれません。
しかし、この時代につくられた作品群を聴く限り、モーツァルトはまるで囚人のように狭いザルツブルクに閉じこめられ、冷遇されていたわけではなく、充実した作曲活動、演奏活動を行ったように思われます。
モーツァルトは、自作のセレナーデを指揮しながら、音楽家たちを従え、ベネディクト派大学で演奏し、ミラベル宮殿まで行進していったことが、記録に残されています。
街の中に音楽が満ちあふれ、その主役がモーツァルトだったことが窺えます。
- 宗教音楽
- ザルツブルク音楽の大きな柱が宗教音楽でした。大聖堂では、ミサなどが響き渡り、オルガンが荘厳な音を奏でていました。
その模様は、レオポルド・モーツァルトが記した次ような記録からも窺えます。この手紙に出てくる作品は、、ミヒャエル・ハイドンの《聖ヒエロニムス・ミサ》です。レオポルトは、この作品のことを「オーボエ・ミサ」と呼んでいます。
「いま、大聖堂のミサ聖祭から帰ってきましたが、ハイドンのオーボエ・ミサが演奏 されました。彼が自分で指揮しました。奉献誦 もあり、ソナタの代わりに、司祭が唱える昇階誦の言葉にもまた曲がつけられました。昨日、これは晩課のあと練習がありました。御領主はミサを執り行わず、フリードリヒ・ロードゥローン伯爵がやりました……。私には万事がものすごく気に入りましたが、6人のオーボエ奏者、三人のコントラバス奏者、2人のファゴット、それにカストラートがいたからで、このカストラートは半年間、毎月100フローリンで召し抱えられました。フェルレンディスにザントマイヤーがソロのオーボエ、ロードゥローンのところのオーボエ奏者、さる学生、それに鐘楼長とオプキルヒナーは伴奏のオーボエ、カッセルと司教座聖堂参事会員クノツェンブリーは、トロンボーンの隣のオルガンの傍のコントラバスです。エストリンガーはファゴットを持っていたし、ホーファーとベルヴァインはオーボエ奏者たちの隣で、ヴァイオリン席にいました。私がとりわけ気に入ったのは、オーボエとファゴットは人間の声にほんとによく似ているので、トゥッティはけっこう大規模な編成の純粋な声楽のように思えたし、一方、ソプラノとアルトの声部は、6本のオーボエとアルトのトロンボーンで強化されて、テノールとバスの声部の多人数とちょうど釣り合っていたものでした。それに総唱はまことに堂々たるもので、オーボエのソロなどまったく要らないほどでした。この演奏は全部で1時間半と15分も続いたが、私には短すぎたくらいでした。」(1777年11月1日付けの手紙)
モーツァルトも、宗教国家の宮廷に仕えるミュージシャンとして、ミ サ、リタニア、教会ソナタなどの宗教音楽を作曲していきました。ザルツブルクの支配者、コロレド大司教は、啓蒙主義に共感を示した合理主義者で、合理化の矛先はミサにも向けられ、その短縮が命じられたようです。
モーツァルトは、この大司教の方針に反発し、ボローニャのマルティーニ神父に、次のような不満を書き送っています。この手紙で、モーツァルトは、ザルツブルクの音楽の現状が「まことに恵まれぬ命運」にあることを嘆いた上で、ザルツブルクの教会音楽が次のような境遇に置かれていることを神父に訴えています。
「私どもの教会音楽は、イタリアのそれとは大いに異なっているばかりか、いっそうそれがつよまり、キリエ、グローリア、クレード、ソナタ・アレピストラ、オッフェルトリオ、あるいはモテット、サンクトゥス、それにアニュス・デイのすべてを含むミサ、さらにもっとも荘厳なミサですら、大司教御自身がじきじきに取りおこないますときには、一番長くてさえ45分以上にわたって続いてはならないのです。この種の作曲には特別な勉強が必要であります。それにあらゆる楽器
― 軍隊用トランペット、ティンパニ等を伴ったミサ曲であることが要求されます。ああ!この上なく敬愛する巨匠である尊師よ、私たちはいかに遠く離れていることでございましょう」(1776年9月4日付けの手紙)
この手紙は、モーツァルトの署名がありますが、全文がレオポルトによって書かれており、どこまでモーツァルトの本心なのかわからないところがあります。
また、ミサの短縮がどこまで徹底されたのかも、ミヒャエル・ハイドンのオーボエ・ミサが、1時間45分も続いた、というレオポルトの報告ともます。
いずれにしても、モーツァルトは、いろいろな意味で、ザルツブルクへの不満を募らせていき、出て行くことを決断したのでした。
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