|
- シュタインのピアノフォルテ
- 10月11日、モーツァルトと母アンナはミュンヘンを出発し、同じ日の夜、レオポルドの故郷アウグスブルクに到着しました。
新教徒と旧教徒の対立は、ドイツでは深刻でしたが、アウグスブルクはカトリック教徒と新教徒が一緒に暮らしている自由都市でした。1518年には、宗教改革を唱えたマルティン・ルターが説教をしたりしています。
高名なクラヴィーア制作者のヨハン・アンドレアス・シュタイン(Johann Andreas Stein,y 1728 - 1792) もルター派新教徒でした。レオポルドは、ルター派新教徒のことをそう呼ばないで、「福音教会派」と呼ぶように、という指示をザルツブルクから出しています。
モーツァルトは早速市長のランゲンマンテルを訪ね、シュタインのクラヴィコードで腕前を披露しています。
そして、シュタインの工房を訪ね、はじめて彼が制作していたピアノフォルテに触れています。この点については、クラヴィーア音楽覚え書きの「ピアノフォルテとの出会い」をご覧ください。
10月22日には、フッガー伯のホールでコンサートを開催し、交響曲のほか、《3台のクラヴィーアのための協奏曲 ヘ長調K242》を演奏しています。このとき、モーツァルトが第2クラヴィーア、シュタインが第3クラヴィーアを弾きました。演奏家と楽器制作者の緊密で幸福な関係が窺えます。
- ベーズレ嬢
- アウグスブルクにはモーツァルトの親戚がたくさんいたようですが、モーツァルト一家と交際があったのは、弟のアロイス一家だけだったようです。このことは、レオポルドが長男でありながら親を見捨て、ザルツブルクに出奔したこととおそらくは無関係ではないでしょう。
アロイスには、マリア・アンナ・テークラという娘がいました。モーツァルトがアウグスブルクを離れてからこの従妹 ― 「ベーズレ嬢」に送った手紙の数々は、後世《ベーズレ書簡》として知られています。
下半身の話題と、《排泄物嗜好》(スカトロジー)に溢れ、この手紙を手に入れた19世紀のモーツァルト研究家の中には、焼き捨ててしまおうと真剣に考えた人もいるほどです。
「わがいともいとしきお姪さま!おいとこさま!お嬢様!母上様!姉君様にしてわが妻さま!・・・くそったれ、畜生め、こいつはたまげた驚いた、クロアチアのすっとんちきめ、悪魔、魔女、妖婆、十字軍め、どこまで続くんだ。このくそったれ四元素め、空気、水、土、火、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、それにアメリカ、イエズス派、アウグスチノ派、ベネディクト派、カプチン派、ミノリット派、フランチスコ派、ドミニコ派、カルトジオ派に、聖十字会の坊主ども。誓願修道士に破戒僧、それからあらゆるのらくら、いかさま、下種(げす)、悪党、束になったチンボコ野郎ども、ろば、とんま、間抜け、うすのろ、阿呆に馬鹿者! そのざまはなんだって?兵隊四人に肩帯三本だって?
― それじゃ小包に、肖像画はないの? ― 」(1778年1月17日付け)
この手紙からは、モーツァルトがアウグスブルクに滞在した間、このお嬢さんとどのような交際をしたのかを伺い知ることができます。
次 へ
top
|