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- 悲劇への旅立ち
- 1777年9月23日、モーツァルトと母マリア・アンナは、西方への旅に出発しました。モーツァルトはザルツブルクに見切りをつけ、新天地に活躍の場を求めたわけですが、結果的にはどこの宮廷にも相手にされず、また、パリでは母を亡くすことになる悲劇への旅立ちでした。
レオポルドが、旅慣れない母親にモーツァルトを付き添わせ、長い旅に送り出した事情は、正確にはよくわかりません。
レオポルドの手になるモーツァルトの辞職願いは、この年の8月1日付で書かれたとされますが、この辞職願いからは、レオポルドが以前に待遇改善の嘆願書を出したが無視されたこと、また、2,3ヶ月の休暇願を出したがこれも握りつぶされたことなどの事情が読みとれます。
コロレド大司教は、モーツァルト父子の双方に対して辞職の許可を出しましたが、結果的にレオポルドはザルツブルクにとどまりました。この間、モーツァルト一家の間では相当の葛藤があったことと思われます。
モーツァルトの反抗は父のみならず大司教にも向けられたのでしょうか。
これも旅だった後のモーツァルトの手紙から推測することができます。彼は旅先から大司教のこ とを「回教坊主(der Mufti)」「三百代言(Chicane)」などと罵っており、かなり鬱憤がたまっていたことは窺えます。
「僕はいつもこの上なく上機嫌です。あの三百代言からおさらばしてから、ぼくの心は羽のように軽やかです!」(1777年9月26日付けの手紙)
- 「空席がない」
- 最初の滞在地ミュンヘンで、モーツァルトは、ザルツブルクで作曲したK246,K238.K271のクラヴィーア協奏曲を演奏したり、クラヴィーアの即興演奏を披露したりしています。
また、イタリア旅行中にボローニャで会ったボヘミア出身の音楽家ヨーゼフ・ミスリヴェチェックにも再会しました。ミスリヴェチェックは、ミュンヘンの病院で梅毒の治療を受けていて、モーツァルトは、彼の哀れな相貌を詳しくザルツブルクに書き送っています。
しかしミュンヘンでの最大の目的は、この地で宮廷作曲家の地位を得ることでした。
モーツァルトは、選帝侯マクシミリアン・ヨーゼフ3世に対し、じきじきに願い出ますが、選帝侯の答えは
「空席がない」
でした。
ミュンヘンの宮廷はザルツブルクの宮廷と深いつながりがあり、ザルツブルクを飛び出してきた音楽家を召し抱えるわけにはいかなかったと思われます。
上の写真は、ミュンヘンの王宮レジデンツのホールです。
バイエルン選帝侯領時代の栄華がしのばれます。
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