ザルツブルク 8

1773.9.26 - 1774.12.6

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モーツァルトの旅 1
モーツァルトの旅 2
モーツァルトの旅 3
ザルツブルク 5
ヴェロナ 3
ミ ラ ノ 3
ザルツブルク 6
ボルツァーノ 2
ミ ラ ノ 4
ヴェロナ 4
ザルツブルク 7
ウィーン 3
ザルツブルク 8
ミュンヘン 3
ザルツブルク 9
ミュンヘン 4
アウグスブルク 2
マンハイム 1
パ リ 4
サン・ジェルマン
パ リ 5
ナンシー
ストラスブール
マンハイム 2
カイスハイム
ミュンヘン 5
ザルツブルク 10
ミュンヘン 6
モーツァルトの旅 4
最初のクラヴィーア・ソナタ
目的がはっきりしないウィーン旅行から戻ったレオポルドは、長年考え続けてきた引っ越しを実行します。
モーツァルト姉妹も大きくなり、長年住み慣れたゲトライデ・ガッセのハーゲナウアー家の借家では手狭だったからです。イタリア旅行などで経済的にも余裕が出てきたのかもしれません。また、もしかしたらイタリアでもウィーンでも就職がうまくいかず、しばらくはザルツブルクに留まらざるを得ないとあきらめがついたのかもしれません。
今度の住居は、ザルツァッハ川の対岸にある当時のハンニバル広場でした。



上の写真は、川を挟んで新市街地側を写したものです。手前は王族御用達のホテル、エスタライヒッシャー・ホーフです。 
モーツァルト一家の新居は、部屋が8つあり、前の家よりもかなり広いものでした。この家はもともと宮廷舞踏教師が住んでいたことから『舞踏教師の家(Tanzmeister Haus)』と呼ばれていました。宮廷で舞踏を教える宮廷舞踏教師はプレステージが高い職業でしたし、ここではダンスパーティーなどがよく開かれていましたから、この建物のことは以前からザルツブルクでもよく知られていました。
レオポルトがこのように広い、由緒ある家を借り受けることができたのは、西方への大旅行以来の蓄えがあったからでしょう。またウィーンでの就職運動がうまくいかず、当面はザルツブルクから出て行く当てがなかったことも、レオポルトに引っ越しを決意させた背景にあると考えられます。
モーツァルト一家はこの家に友人たちを招き、食事をともにし、賞金を賭けて射的ゲームを楽しんだり、コンサートを開きました。

ト短調 KV183 のシンフォニー
モーツァルト17歳から18歳にかけてのこの時期、モーツァルトと新任のコロレド大司教との関係がどのようなものだったのかはよくわかっていません。モーツァルトはすでに有給のコンサートマスターに任命されており、ザルツブルクの宮廷のために多くの作品をつくっていきました。
ウィーンから帰ってきた1773年から翌1774年にかけてつくった5曲のシンフォニーは、大司教館(レジデンツ)やミラベル宮殿で、大司教の臨席のもとに演奏されたと思われますが、作品の内容は以前よりもはるかに充実しており、モーツァルトの宮廷作曲家としてのやる気が窺える作品群となっています。
5曲のシンフォニーの中では、ト短調 KV183(第25番)がきわだってよく知られています。モーツァルト没後200年の少し前にヒットした映画『アマデウス』では、冒頭、サリエリが
「許してくれ、モーツァルトは私が殺した」
と叫んで自殺を図り、病院に運ばれていくシーンが出てきますが、この場面でこのKV183のの冒頭が使われています。確かにこのシーンにぴったりくるような緊張感、切迫感があるのですが、ト短調という調で書かれているこの作品を何か特別のものとしてとらえるのはどんなものでしょうか。
たいていの解説書には、この作品と《シュトルム・ウント・ドゥランク》なる芸術運動との関連について触れられていますが、モーツァルトの手紙にはそのような事情を窺わせる記述は何もありません。アインシュタインは、

「開始からシンコペーションでゆれるオーケストラの内的鼓動・・・次第に消えていくピアニッシモのあとのフォルティシモの爆発、あらあらしく突進する上拍、鋭いアクセント、ヴァイオリンのトレモロ ― これら一切は、橄欖山と十字架を思う敬虔な想念とはなんのかかわりもなく、全く個人的な苦悩の体験にかかわるものである」(アインシュタイン『モーツァルト ― その人間と作品 ― 』(白水社)308頁)

と、興奮気味に記していますが、天上のモーツァルトが聞けば苦笑するかもしれません。じっさいト短調のシンフォニーは、ハイドンやヨハン・クリスティアン・バッハによってつくられていますし、KV183に登場する材料や音型、リズムは、モーツァルトのほかのシンフォニーでもよく使われているものです。
この時期につくられた5曲のシンフォニーを続けて聴いて感じることは、その多様性です。モーツァルトは新しい大司教に対して、一流の料理人がいろいろな料理をつくって出すように、かなり個性の異なるシンフォニーを続けてつくって見せ、自分の宮廷作曲家としての能力を誇示したのではないでしょうか。ト短調KV183は、モーツァルトにとっては別に特別な意味をもつものではなく、いろいろな品揃えの中のひとつに過ぎなかったように私には思えます。 

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