ミ ラ ノ 3 

1771.8.21 - 12.5

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モーツァルトの旅 1
モーツァルトの旅 2
モーツァルトの旅 3
ザルツブルク 5
ヴェロナ 3
ミ ラ ノ 3
ザルツブルク 6
ボルツァーノ 2
ミ ラ ノ 4
ヴェロナ 4
ザルツブルク 7
ウィーン 3
ザルツブルク 8
ミュンヘン 3
ザルツブルク 9
ミュンヘン 4
アウグスブルク 2
マンハイム 1
パ リ 4
サン・ジェルマン
パ リ 5
ナンシー
ストラスブール
マンハイム 2
カイスハイム
ミュンヘン 5
ザルツブルク 10
ミュンヘン 6
モーツァルトの旅 4

婚礼の祝典劇
モーツァルト父子は、真夏のイタリアの道を猛烈な速さでぶっ飛ばし、1771年8月21日、ミラノに到着しました。
ミラノは、オーストリア女帝、マリア・テレジアの皇子でロンバルディアの総督フェルディナント大公と、モデナ公国のベアトリーチェ皇女との婚礼で沸き返っていました。
モーツァルトは、ジュゼッペ・パリーニが書いた《アルバのアスカーニョ》を作曲します。この祝典劇は、ギリシア神話に基づき、大公の結婚を祝福するものでした。
この婚礼には、かつてウィーンからモーツァルトについて推薦状を書いてくれた老巨匠アドルフ・ハッセも招かれていて、《ルジェッロ》を作曲しました。
モーツァルトは順調に作曲を進め、完成させた後、マンツォーリなどイタリアを代表する歌手たちとリハーサルをを行い、10月17日、《アルバのアスカーニョ》を初演、成功を収めました。

(上の絵は、池阪 忠さんが描かれたサンタ・マリア・デレグラッツェ教会です。池阪さんのサイトでは、イタリアで描かれた美しい風景画をご覧いただけます。)
祝典
フェルディナントの婚礼の祝典は、公国を挙げて行われました。宮殿では、晩餐会や仮面舞踏会が連日行われ、また、庶民には、「クッカーニャ」と呼ばれる酒食の接待が行われました。
婚礼のこのような祝賀行事は、騒然とした雰囲気で行われたようで、モーツァルト父子が「クッカーニャ」を見物に出かけたとき、仮設のバルコニーが崩れ落ち、多数の死傷者が出ました。
祝賀行事の中心であったモーツァルトの祝典劇《アルバのアスカーニョ》の成功は、この婚礼を取り仕切っていた総督府長官フィルミアーン伯爵を喜ばせたようで、モーツァルト父子はハッセとともに伯爵の邸に招待され、ダイヤモンドがちりばめられた時計を賜っています。
レオポルトは、祝典劇の公演が終わっても、いろいろな口実を設けて、ミラノの滞在を続けました。これは、フィルミアーン伯爵の推薦を頼りに、ミラノ宮廷での就職を運動していたためです。
しかし、フェルディナント大公は曖昧な返事に終始したようで、これは実現しませんでした。レオポルトは知るよしもなかったのですが、フェルディナント大公は、音楽家の登用すら自分の意志で決められず、母親であるウィーンの女帝に相談していましたた。そして女帝は、次のような冷たい手紙を大公に送っていたのです。

「あなたは、若いザルツブルク人を自分のために雇うのを求めていますね。私にはどうしてだが分かりませんし、あなたが作曲家とか無用の人間を必要としているとは信じられません。けれど、もしそれがあなたを喜ばせることになるのなら、私は邪魔をしたくはないのです。あなたは無用な人間を養わないように、そして決してあなたのもとで働くようなこうした人たちに肩書など与えてはなりません。乞食のように世のなかを渡り歩いているような人たちは、奉公人たちに悪影響をおよぼすことになります」

ミラノでの就職を諦めたレオポルドは、モーツァルトとともに12月5日、ミラノを発って帰路につきました。

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