1781年6月、ウィーンでコロレド大司教と決裂し、街に放り出されたモーツァルトにとって、死活問題だったのは、クラヴィーアをどうやって手に入れるのかということでした。
幸い、転がり込んだウェーバー家には、チェンバロが2台ありご主人様から放逐された25歳の若者にとり、ウェーバー一家の人々が身の回りの世話をしてくれたことは身に滲みたことでしょう。音楽家モーツァルトにとって切実だったことは、クラヴィーアをどうやって手に入れるかということであり、このウェーバー家の部屋にクラヴィーアがあり、自由に弾くことができた、ということはとても大きな意味があったと思われます。
モーツァルトは、記してます。
「たった今、カウニッツ侯爵の私設秘書ヒッペ氏のところから帰って来たところです。彼は非常に親切なひとで、ぼくのとても良い親友です。 ― 自分のほうから先に訪問してくれたので、ぼくは彼に演奏してあげました。ぼくはいま泊まっている家に2台のフリューゲルを持っていて、1台は小品(ギャラントリー)を弾くために、もう一台はぼくらがロンドンで使ったのと同じように、低いオクターヴで一貫して調律されていて、つまりオルガンのような楽器です。・・・」(1781年6月27日付けの手紙)
モーツァルトに楽器を与えてくれたもう一人の人物が、旧知のトゥーン伯爵夫人でした。彼女は、自分のピアノフォルテをモーツァルトに弾かせてくれたのです。
トゥーン伯爵夫人は、当時ウィーンでもっとも賑わっていたサロンを主宰しており、夫人の援助を得られたことはモーツァルトがウィーンで音楽家として生きていく上でありがたいことでした。トゥーン伯爵夫人が所有していたのは、シュタインが制作したピアノフォルテでした。
モーツァルトは、前のページでも触れましたように、以前からシュタインのピアノフォルテを知っていましたが、シュタインはその後ピアノフォルテの改良をすすめ、1780年代に入ってウィーンに持ち込まれた楽器は、鍵の返りや響きの面でかなり進歩していたことと思われます。
モーツァルトは1781年のクリスマスイブに皇帝ヨーゼフ2世から招かれ、宮殿ででクレメンティと競演していますが、このときに使われた楽器は、トゥーン伯爵夫人から借りたピアノフォルテでした。