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イタリアのチェンバロ
チェンバロには、ヴァージナル、スピネットなどと呼ばれる小型の楽器もありますが、その主流は、現代のグランドピアノと似た形をした、グランド型の形をした楽器でした。
このタイプの楽器は、ヨーロッパの各地でつくられましたが、その代表的な生産地は、イタリア、フランドル、フランス、ドイツでした。
歴史的には、もっとも早く、チェンバロが本格的に製作されたのは、北イタリアでした。16世紀には、北イタリアは、ヨーロッパにおけるチェンバロの制作の中心で、各地へ輸出されていったと考えられています。
小型のチェンバロが主流でしたが、グランド型のものもつくられました。1770年1月6日、ヴェロナを訪れたモーツァルトは、肖像画に描かれていますが、この絵の中で、モーツァルトは、「ヴェネツィアのジョヴァンニ・チェレスティーニ制作。1583年」との銘が入ったチェンバロの前に座っています。
チェレスティーニは、ヴェネツィアで活躍したチェンバロ制作家です。
この時代のチェンバロは、象牙や宝石が嵌め込まれた見事な装飾が施されていました。
また、クリアーな音がこのイタリアン・チェンバロのひとつの特色です。
17世紀になると、ローマやナポリも含め、イタリア各地ですぐれたチェンバロ制作家が輩出しました。ピアノフォルテの発明者である、クリストーフォリは、このような豊かなイタリアにおけるチェンバロ制作の伝統の中から生まれた人物です。
フランドルのチェンバロ
17世紀になると、フランドル(現在のベルギーの一部)のアントワープが、一躍チェンバロの一大生産地に躍り出ます。
ヨハネス・リュッカース、アンドレアス・リュッカースの兄弟は、工房を構え、たくさんの職人を雇って、チェンバロの大量生産に乗り出しました。リュッカースの工房ででは、ヴァージナルやスピネットもつくられましたが、グランド型のチェンバロもたくさんつくられました。リュッカースのチェンバロは、イタリアン・チェンバロに比べて音がよく響き、華麗な音色が特徴です。
リュッカースの名声はたちまち高まり、各地に宮廷を含め、ヨーロッパ中から注文が殺到したと言われます。
17世紀のアントワープは、有名な画家のルーベンスも工房を構えた芸術の中心地でした。しかし、リュッカースの死後はチェンバロの制作は急速に衰え、パリにその座を譲ることになります。
フランスのチェンバロ
パリはもともとチェンバロ制作が盛んでしたが、18世紀になると、パリのクラヴィーア制作家、ニコラ・ブランシェが、リュッカースの方法を受け継ぎ、本格的なチェンバロ(フランス語でクラヴサン)の制作を始めます。
太陽王ルイ14世が君臨し、ヨーロッパ最大の音楽都市となったパリでは、アンリ・エムシュなどのクラヴサン制作家が活躍し、フランソワ・クープランなどが優れたクラヴサン作品を作曲しました。
右の写真は、1756年にエムシュが制作した楽器をもとに、Hubbard Harpsichords, Inc が制作したクラヴサンです。18世紀のロココ絵画を思われる、美しい絵が描かれています。当時のパリでは、この楽器のように、美しい二段鍵盤のクラヴサンがたくさん制作されました。
モーツァルト一家は、モーツァルトが神童時代にパリを訪れたとき、ルイ15世の愛人だったポンパドゥール伯爵夫人を訪ねていますが、レオポルトは、夫人の邸には、美しく飾られたクラヴサンがあったと書き残しています。
17世紀になると、フランドル(現在のベルギーの一部)のアントワープが、一躍チェンバロの一大生産地に躍り出ます。
ドイツのチェンバロ(フリューゲル)
ドイツでは、16世紀頃からライプツィヒやシュトゥットガルトなどでチェンバロが制作されてきましたが、17世紀には、その水準や生産規模は、イタリアやフランドルには及ばなかったと考えられています。
北ドイツや中部ドイツでは、クラヴィコードが愛用されましたが、それでも18世紀になると、ドイツ各地で、優れたチェンバロが制作されるようになりました。
ドイツでは、グランド型のチェンバロは、フリューゲルと呼ばれましたが、大バッハは何台かのフリューゲルを持ち、この楽器を想定してクラヴィーアのための作品を作曲していきました。
ハンブルクのクリスティアン・ツェル、同じくハンブルクのヒエロニムス・アルブレヒト・ハス、ピアノフォルテの制作でも有名なゴットフリート・ジルバーマンなどが大バッハと関わりを持っています。
上の写真は、ハスが制作したフリューゲルをもとに、、Hubbard Harpsichords, Inc が制作した楽器です。
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