ヴェロナ 1

1769.12.27 - 1770.1.10  

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貴族たちの歓迎
1769年12月27日、モーツァルト父子はヴェロナに到着しました。ヴェロナを中心とするヴェネト地方は、当時ヴェネツィア共和国の支配下にありました。小島の都市国家ヴェネツィアは古くから東方との貿易で栄え、海洋国家として君臨してきましたが、地中海の植民地はオスマン・トルコ帝国に奪われ、また続いてポルトガルに東方貿易の権益を奪われていきました。
海洋国家としての衰えを感じ取ったヴェネツィアは、大陸に目を向け、軍事行動を起こして進出していきます。ヴェロナがヴェネツィア共和国の支配下に入ったのは、1404年のことでした。
デッレ・ドゥーエ・トッリモーツァルト父子は、ヴェロナに翌年にかけて約2週間滞在しました。
左の写真は、モーツァルト父子が滞在したホテル、デッレ・ドゥーエ・トッリ(二本櫓館)で、右に少し映っている建物がサン・タナスタージア教会です。ホテルの外観は当時とはだいぶ変わっているようですが、教会は当時のままの姿をとどめていることでしょう。
(写真は科学ジャーナリストの武部俊一様からご提供を頂きました。)
当地の貴族たちは、競い合うようにコンサートを主催してくれました。モーツァルトの演奏はずいぶんもてはやされたようで、モーツァルト父子は、貴族たちから次々に食事の招待を受け、1日に掛け持ちをするほどでした。この街は、モーツァルトを最も熱烈に歓迎した街のひとつと言っていいと思います。
レオポルトの手紙によれば、当時のヴェロナは、葡萄の栽培や絹の売買でたいへん繁盛しており、貴族たちも立派な邸、庭園、画廊などを持っていたようです。
肖像画
ヴェロナでは、今日残されている有名な肖像画が描かれています。
この絵は、モーツァルトを歓待したルジアーティ家の遠縁に当たるサヴェーリオ・ダッラ・ローザという画家の手になるこもので、モーツァルトの伝記などにもよく掲載されているポピュラーなものです。モーツァルトは、赤い上着を着て、
「ヴェネツィアのヨアンニス・チェレスティーニ制作。1583年」
の銘が入ったチェンバロの前に座っています
。チェンバロの譜面台には楽譜が置かれています。 この絵の中の楽譜は今日残されており、35小節までで未完に終わっています。この曲が果たしてモーツァルトの作曲によるものかどうかは確定していませんが、新全集は疑問があるもののモーツァルトの作品と判断し、《クラヴィーアのためのアレグロ KV (第6版)72a》として整理しています。
曲はチェンバロで弾かれたモーツァルトの即興演奏を伺わせる内容です。

クラヴィーアのためのアレグロ KV (第6版)72a》(グラヴィノーヴァ演奏:久元祐子)
円形劇場
ヴェロナには、紀元前1世紀のローマ時代に建設されたアレーナ(円形劇場)があります。
収容人員は2万人を超える巨大な建造物です。



モーツァルト父子はこの円形劇場を訪れていますが、特に感想を残していないので、モーツァルト父子より十数年後にこの街を訪れたゲーテの「イタリア日記」から引用させていただきます。

「1786年9月16日、ヴェローナにて。
 円形劇場は、すなわち古代の重要記念物のうち、私の見る最初のものであり、しかもそれは実によく保存されている。中にはいったとき、そしてまた上に昇って縁を歩きまわったときにはなおさらのことだが、私は何か雄大なものを見ているような、しかも実は何も見てはいないような、一種異様な気持ちがした。実際それは空のままで眺めるべきものではない。近年ヨーゼフ1世やピウス6世のために催しをしたときのように、人間を一ぱい鮨詰めにしたところを眺めるべきものである」(ゲーテ『イタリア紀行 上』59頁)
 
このアレーナは、今世紀の初めから野外オペラ上演されており、野外音楽祭に発展しています。巨大な舞台装置をいかした大スペクタクルとしてオペラが上演されているようで、世界中から観客が詰めかけます。

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