|
- 吹雪の中のウィーン帰還
- 1768年1月、たいへんな吹雪の中を、駅馬車でモーツァルト一家はウィーンに戻りました。
モーツァルト一家は、ふたたび宮廷に、皇太后となったマリア・テレジア、そして皇帝ヨーゼフ2世に拝謁しています。
ヨーゼフ2世は、マリア・テレジアの夫、フランツ1世の逝去により、すでに1765年に皇帝に即位していました。右の画像は、皇帝ヨーゼフ2世の即位式典を描いた絵です。
モーツァルト一家は、ウィーンでの滞在を続けますが、これはザルツブルクの宮廷の不興を買ったようです。レオポルドの給料は、3月で差し止められることになりました。レオポルトは、これでイタリア旅行の許可が得られやすくなった、と開き直っています。
ウィーンに戻ったレオポルトは、ウィーンで一番大きな書店であるトラッタナー書店を訪ねています。ザルツブルクの家主ハーゲナウアーから安息日説教集を探してくれるよう頼まれていたのです。この書店の主が、ヨハン・トーマス・フォン・トラッタナー。彼は、宮廷御用達の印刷業者、出版業者、書籍商でした。
教育に力を入れていたヨーゼフ2世に近づき、学校の教科書の印刷も一手に引き受け、財をなしました。
- オペラ上演への妨害
- もともとレオポルトは、ウィーンでモーツァルトにオペラを作曲させ、上演することも目論んでいました。
皇帝ヨーゼフ2世の賛同も得られ、モーツァルトは、オペラ《ラ・フィンタ・センプリチェ》を書き上げますが、ここで数々の妨害が入ります。
レオポルトは、妨害の背後には、ウィーン楽壇の大御所、クリストフ・ウィリバルト・グルック(右の肖像画)がいる、と判断しました。
1768年9月、レオポルトは、皇帝ヨーゼフ2世宛てに、興行主や歌手、写譜屋など、ウィーンのさまざまな人々による組織的な妨害を訴え、オペラの上演を嘆願しています。しかし、この嘆願が受け入れられることはありませんでした。
オペラの上演は断念せざるを得なかったものの、ウィーンでは《ミサ・プレヴィス ト長調K49》と《ミサ ハ短調K139(いわゆる「孤児院ミサ」》が作曲されました。
特に後者のミサは、12歳の少年の作とはとても思えない完成度に達していると思います。
モーツァルト父子は、1768年12月の下旬にウィーンを出発、メルク、ランバッハと来たルートを通り、翌1769年1月5日、1年4ヶ月ぶりにザルツブルクに戻りました。
次 へ
top
|