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- 宗教作品など
- ザルツブルクに戻ったモーツァルトは、1769年1月13日、13歳の誕生日を迎えました。
この年の12月にイタリアへ出発するまでの間に、さまざまな宗教曲などの作品がつくられています。大司教館や大学でのコンサートなど、少年音楽家は、ザルツブルクの音楽世界で活躍を始めていました。
この間に作曲された宗教曲としては、まず、ザルツブルク大学教会(下の写真)でのミサのためにつくられた、ミサ・ブレヴィス ニ短調 KV65(61aが挙げられます。このミサは、2月5日、大司教列席のもとに初演されました。
また、10月には、ミサ曲ハ長調(KV66)、通称「ドミニクス・ミサ」がつくられています。このミサ曲は、モーツァルト家の家主ハーゲナウアーの4男カエタン・ルーペルト・ハーゲナウアーがドミニクスとして新任司祭となるのを契機に作曲されました。
11月には、デ・デウム ハ長調(KV141 (66b)が作曲されています。ミヒャエル・ハイドンの作品を模倣してつくられ、レオポルトが添削したという説があります。
- フィナールムジーク
- 1769年8月6日夜、ザルツブルク大学に論理学教授、ヴィードル(Rufinus Widl, 1731-98)のためのコンサートが開かれ、セレナード
ニ長調KV100 (62a) が演奏され、その前後にカッサシオン ニ長調(KV62)、カッサシオン 変ロ長調(KV63)が演奏されました。このときの様子について、ドミニクスは日記に、「8月6日、若いモーツァルトが作曲した論理学部生たちのための終了祝賀音楽(ムジカ・フィナーリス)があった。」と記しています。(出典は、『モーツァルト書簡集U
p17)
また、続く、8月8日には、同じく物理学部生たちのための終了祝賀コンサートが開かれています。
このように、当時のザルツブルクでは、大学の教授や学生には敬意が払われていました。そして、終業式のためには、モーツァルトなどザルツブルクの音楽家によってそのための音楽がつくられました。これら大学の終業式のためにつくられた作品は、フィナールムジークと呼ばれ、 ザルツブルクの音楽の特徴となっています。
フィナールムジークは、室内で演奏されたばかりでなく、野外でも演奏され、楽士たちは行進曲を奏でながら街中を練り歩きました。ミラベル宮殿の庭園(下の写真)でも、大司教のためにセレナードが演奏されました。フィナールムジークは、ザルツブルク夏の恒例行事となっていて、ザルツブルクの豊かな音楽文化の一翼を担っていました。
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