ウィーン 2

1767.9.15 - 10.23  

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モーツァルトの旅 1
モーツァルトの旅 2
ザルツブルク 3
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ウィーン 2
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モーツァルトの旅 3
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メルクを経てウィーンへ
ザルツブルクでの足場を固めたレオポルドは、1767年9月11日、ふたたび一家でウィーンに向かって出発しました。この旅行には、従僕のベルンハルトも同行しました。
フェックラブルック、ランバッハ、リンツを経て、9月14日の昼には、メルクを訪れています。
メルクは、ドナウ川の川沿いに開けた街で、中世の雰囲気を今に伝える、ドナウの川下りの出発地になっています。ここから始まるヴァッハウ渓谷は、世界遺産にも指定されています。



メルクの修道院
メルクは、修道院で知られる街です。
ヨーロッパ各地にはたくさんの修道院がありますが、このメルクの修道院は、壮大な規模を誇るオ−ストリア屈指のバロック建築として知られています。



モーツァルト一家も、この修道院を訪れています。
レオポルトは自ら名乗らずにモーツァルトにオルガンを弾かせ、後でオルガニストに名前を当てさせたりしています。かなり自分たちの名前が知られていることを意識していることが窺えます。

私の愛読書、ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」は、メルクの修道院長アドソが、若い頃に北イタリアで遭遇した恐ろしい事件を回想する物語です。
ウィーン滞在
この二度目のウィーン旅行の目的は、マリア・テレジア女帝のヨゼーファ皇女がナポリ王フェルディナンド4世と結婚する機会を捉え、ウィーンに集まる王侯貴族の前でナンネルとウォルフガングに演奏させることだったと考えられます。
しかし、ヨゼーファ皇女は、当時ウィーンで流行していた天然痘に罹り、10月15日に亡くなってしまいます。
天然痘は、ウィーンで猛威をふるい、たくさんの市民が亡くなりました。、とくに子供の犠牲者が多く、教会の死亡者名簿に載っている子供の9割は天然痘の犠牲者だったと言われます。
レオポルトは、もはやウィーンにとどまることはモーツァルト姉弟に危険だと判断し、一時、ウィーンを離れることにしました。
10月23日、ウィーンを出発、モラヴィア(今日のチェコの一地方)のオルミュッツへ、そしてブルノへと避難しました。

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