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- 短期間の滞在
- モーツァルト父子は、ボローニャからさらに南下し、3月30日、トスカナ大公国の首都フィレンツェに到着しました。
フィレンツェはもともとは共和国でしたが、市民の間の紛争を収拾したメディチ家が支配するようになります。
メディチ家は、ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどを保護し、フィレンツェはルネサンス文化の中心地となりました。
1569年、ローマ教皇からトスカナ大公の称号がメディチ家に授与され、フィレンツェはトスカナ大公国の首都になりました。
メディチ家は1737年に途絶え、トスカナ大公国はオーストリアのハプスブルク家の支配下に入ります。モーツァルトが訪れた当時、トスカナ大公はマリア・テレジアの第三皇子レオポルトでした。後に長兄ヨーゼフ2世の死去を受けてオーストリア皇帝レオポルド2世として即位する人物です。
レオポルトは、このトスカナ大公として、善政を行い、イタリア人の人望も厚かったと伝えられます。
ミラノのフェルミアーン伯爵からの招待状を携えていたモーツァルト父子は、すぐにレオポルト大公に謁見しています。モーツァルト父子のフィレンツェ滞在は、1週間あまりの短いものでした。
この美しい都市は、レオポルトにも強い印象を与えたようで、とても立ち去りがたかったようです。しかし、二人には、ローマ訪問が待っており、フィレンツェに長居するわけにはいきませんでした。
ドゥオモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。右の写真)など、フィレンツェの素晴らしい建築物や絵画などをゆっくり見ることは、残念ながらできなかったようです。
- ヴィッラ・ポッジョ・インペリアーレ
- 4月2日の晩、モーツァルトは離宮ヴィッラ・ポッジョ・インペリアーレ(Villa di Poggio Imperiale) (下の写真)に案内され、モーツァルトを迎えてのコンサートが開かれました。
このときモーツァルトの伴奏を引き受けてくれたのが、タルティーニの系列に属する名ヴァイオリニスト、ピエトロ・ナルディーニでした。
ナルディーニは、ウィーン、ドレスデン、シュトゥッツガルトで活躍し、その後イタリアに戻ってきてローマやナポリで演奏活動をした後、フィレンツェに落ち着き、レオポルト大公より、宮廷楽団の指揮者に任命されていたのでした。
ナルディーニは、モーツァルトに、テーマを与えて複雑なフーガをつくらせたりしたようですが、モーツァルトは、ナルディーニの”出題”をすべて見事にこなしたと伝えられます。
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