ボローニャ 2 

1770.7.20 - 10.13
  

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モーツァルトの旅 1
モーツァルトの旅 2
ザルツブルク 3
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ウィーン 3
ザルツブルク 4
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モーツァルトの旅 3
モーツァルトの旅 4
アカデミア・フィラルモニカ
7月10日にローマを発ったモーツァルト父子は、ロレートなどを経て、7月20日、再びボローニャを訪れました。
モーツァルトは再度マルティーニ神父(Giovanni Battista Martini  1706 ? - 1784), を訪ねます。神父は、作曲法の大家であると同時に、音楽史の研究家でもありました。大著《音楽史》の第2部は、この頃仕上がっていたと考えられます。
一方、レオポルトは、自著の教則本《基本的ヴァイオリン奏法の試み》を持参しており、神父に献呈しています。
ボローニャには優れた音楽家や見識のある貴族、聖職者が会員となっているアカデミア・フィラルモニカ(楽友協会)がありました。
会員になるためには満20歳以上であることとされていましたが、14歳のモーツァルトは、特例として ― おそらくは、マルティーニ神父の推薦により ― 試験を受けることが認められました。
記録によれば、モーツァルトはこの試験で《まず神の御国を求めよ》という第1旋法のアンティフォナ(聖霊降臨後の第十四主日に歌われる聖歌)を与えられ、部屋に閉じこめられて合唱四部に編曲するよう求められましたが、1時間足らずで完成させ、全員の賛同によって入会が認められたと言います。
10月13日、ボローニャを発ったモーツァルトは、ふたたびこの地を訪れることはありませんでした。しかし、モーツァルト父子とマルティーニ神父の文通はその後も続きました。
中世から続く大学都市
現在人口約45万人を数えるボローニャは、中世の雰囲気を今に伝える趣のある都市です。
ボローニャは、10世紀には、世界で最も古いといわれる大学が創立されています。
中世の最盛期には、数千人の学生が学んでいたと言われます。左の写真は、大学の中庭です。
レオポルトは、大学のみならず、聖堂や記念建造物などを見物したかったようですが、今回は、時間が足りなかったようです。市庁舎(右の写真)を中心に、ポデステ宮殿、旧ボローニャ大学、ネプチューンの噴水、サン・ペトロニオ教会などが建ち並んでいます。
モーツァルト父子がミサと晩課を聴いた、サン・ジョヴァンニ・イン・モンテ教会は、ややはずれにあります。

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