ナ ポ リ

1770.5.14 - 6.25  

.

モーツァルトの旅 1
モーツァルトの旅 2
ザルツブルク 3
地図
ウィーン 2
ブ ル ノ
ウィーン 3
ザルツブルク 4
地図
インスブルック
ボルツァーノ
ロヴェレート
ヴェロナ1
マントヴァ
クレモナ
ミ ラ ノ 1
パ ル マ
ボローニャ 1
フィレンツェ 1
ロ ー マ 1
ナ ポ リ 1
ロ ー マ 2
ボローニャ 2
ミ ラ ノ 2
ト リ ノ
ヴェネツィア
パドゥヴァ
ヴェロナ 2
モーツァルトの旅 3
モーツァルトの旅 4
イタリア最大の都市


モーツァルト父子は、5月14日ナポリに到着しました。
ナポリは当時イタリア最大の都市でしたが、このナポリの支配者は1735年のウィーンの和約により、オーストリアからブルボン王家のスペインに移っていました。
モーツァルトが訪れたときの国王は、スペイン国王カルロス3世の息子、フェルディナント4世、王妃は、オーストリア女帝マリア・テレジアの娘のマリア・カロリーナでした。
3年前、モーツァルト父子は、フェルディナント4世と、マリア・テレジア女帝の娘ヨゼーファ皇女が結婚する機会を捉え、ウィーン旅行を敢行したのですが、ヨゼーファ皇女は天然痘で突然亡くなり、別の皇女があてがわれたのでした。
モーツァルト父子がナポリを訪れたとき、ヴェスヴィオス火山は猛烈な煙を噴き、「すごい閃光」も見えたそうですう。ふたりは火の山を眺め、ポンペイの遺跡を見物しています。ポンペイの遺跡の発掘が始まったのは1748年。モーツァルト父子が訪れた頃には、かなりその全貌が明らかになっていました。
また、ポッツォーリを訪れ、ローマ時代の巨大な闘技場や皇帝ネロの浴場なども観ています。
サン・カルロ劇場
ナポリは、当時イタリア半島最大の音楽都市で、ヴェネチアと並ぶオペラの中心でした。
ナポリのオペラの殿堂がサン・カルロ劇場。ナポリを手に入れたスペインの王子カルロス3世がまっさきに行った事業がサン・カルロ劇場の建設でした。劇場の名前は国王の名にちなんでいます。
18世紀においてサン・カルロ劇場はヨーロッパにおけるオペラの殿堂であり、その大スペタクルはしばしば人々の度肝を抜いたと言われます。
当時 ナポリ・オペラを代表する作曲家が、ニコラ・ヨメッリ(Niccolo Jommelli, 1714 - 1774)で、ヨメッリは、モーツァルト父子がナポリを訪れる前の年にシュトゥットガルトから戻ったばかりでした。モーツァルト父子がナポリに到着してすぐにサン・カルロ劇場で見たオペラが、ヨメッリの代表作《見捨てられたアルミーダ》でした。モーツァルトは本場のオペラにさぞ感激したと思いきや、
「見事だけど、あんまりよく出来すぎていて、しかも芝居として時代遅れ」
と切り捨てています。(1770年6月5日付けの手紙)。
モーツァルトはさらに矛先を、観劇に来ていたナポリ国王フェルディナント4世に向けます。
「国王は無作法なナポリ風に教育されているので、オペラの間ずっと、腰掛の上に立ち上がっていて、それで王妃よりも少し背が高く見えた」
と報告しています。また14歳のモーツァルトは、このナポリ国王が浮浪者たちのご機嫌をとるため、彼らのボスに毎月銀貨をばらまいていることを見逃してはいません。


次 へ

top