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久元祐子 ピアノリサイタル (2020.11.12 紀尾井ホール)
- ピアノの本 No.273号 Music Topics SideB
- 《久元祐子ピアノリサイタル》
ウィーンの至宝ピラミッド・マホガニーをお披露目 苦難を乗り越えた先の光を見出したリサイタル
日本で唯一のベーゼンンドルファー・アーティスト、久元祐子さんのために制作された〈280VCピラミッド・マホガニー〉のお披露目となるリサイタルが、2020年11月12日、紀尾井ホールで開催されました。ベートーヴェン生誕250年に寄せて、若き日のベートーヴェンが憧れ、影響を受けたモーツァルトのソナタとベートーヴェンの傑作ソナタを組み合わせた珠玉のプログラムを、ウィーンの香り豊かに名器で味わう至福のひとときとなりました。
深い陰影とドラマティックな魅力にあふれたモーツァルト《幻想曲KV475》《ピアノ・ソナタKV457》で幕を開けた前半のステージ。ピラミッド・マホガニーの美しい木目に覆われた280VCから多彩な響きを引き出し、ニュアンスに富んだ精緻な音楽を楽しませてくれました。続いて同じハ短調のベートーヴェン《ピアノ・ソナタ「悲愴」》。第1楽章の序奏部の荘重な和音から、作品世界に惹き込まれていきます。第2楽章の抒情的な主題、第3楽章の緊張感に満ちたロンドまで、モ―ツァルトに影響を受けた初期のベートーヴェンのみずみずしい情熱が鮮やかに描き出されました。
後半は、ベートーヴェン《アンダンテ・ファヴォリ》《ピアノ・ソナタ「ワルトシュタイン」》。「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いた後、難聴という苦難を乗り越えて新たな境地に入ったベートーヴェンのエネルギーに満ちた音楽が、重厚な低音から煌めくような高音まで幅広い音域のダイナミズムを活かし、輝かしく繰り広げられました。
嗚り止まない拍手に応えて、アンコールはベートーヴェン《エリーゼのために》、そしてチャイコフスキー《「四季」より「秋の歌」》、グリーグ《アリエッタ》。演奏が終わった瞬問、静謐な空間に大きな感動が沸き起こりました。
(森岡 葉)
- 学研おんがく通信1月号
- ベートーヴェンが見せる希望の世界
2020年11月12日 久元祐子ピアノリサイタルレポート
2020 年は大変な1 年でした。楽しみにしていたあのコンサート、あの展覧会、久しぶりの観劇…と軒並み中止や延期。でも最後の最後に素晴らしいプレゼントをいただきました!
それは、去る2020 年11 月12 日、東京の紀尾井ホールで開催された「久元祐子ピアノリサイタル」。
プログラムは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ〈悲愴〉〈ワルトシュタイン〉を中心に、関連づけて〈悲愴〉と同じハ短調のモーツァルトの幻想曲KV475 とピアノ・ソナタKV457、もともと〈ワルトシュタイン〉の第2 楽章として書かれた《アンダンテ・ファヴォリ》WoO.57 という構成です。前半のモーツァルト作品と〈悲愴〉、後半の《アンダンテ・ヴァフォリ》と〈ワルトシュタイン〉とで、作曲時に使用された楽器が異なる つまり、前半はヴァルター製作のフォルテピアノによる作品群、後半は当時の最新鋭、イギリス式アクションのエラール社のピアノによる作品群 という事に気づくと、演奏への期待が一層増します。
そしてこの日、「ヴァルターの世界」と「エラールの世界」の表現が高いレベルで緻密に分けられた演奏に期待以上の満足感を味わう事ができました!〈悲愴〉ではまるで“休符が聴こえるよう” な静謐さ、〈ワルトシュタイン〉では音符がダイナミックに翔びまわり、自然への憧憬そのもののような“深い森の音” が聴こえたのです――。
この繊細な表現を実現したのは、初お披露目の久元祐子先生の愛器「ベーゼンドルファー 280VC ピラミッド・マホガニー」。先生と一体となって感動の音世界を創り上げます。特に、〈ワルトシュタイン〉の第3 楽章は、いろいろな苦難が浄化され、希望へと昇華し会場に満ち溢れたような、そんな神々しさにしばらく身動きできないほどでした。あの空間を共有できた喜びは何物にも代えがたい体験です。
ベートーヴェンイヤー、(か)にとって最初で最後のベートーヴェンプログラムの演奏会がこのリサイタルで本当に良かったと、心から思えた一夜でした。
- 音楽の友 2021年1月号 Concert Reviews
- 11月12日・紀尾井ホール・モーツァルト「幻想曲」K475「ピアノ・ソナタ」K457、ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ第8番《悲愴》」「アンダンテ・ファヴォリ」「ピアノ・ソナタ第21番《ワルトシュタイン》」
モーツァルトとベートーヴェンの音楽的連鎖と「ハの調」を軸にしたプログラム構成、さらに当初《ワルトシュタイン》の第2楽章として予定されたという「アンダンテ・ファヴォリ」を当該ソナタに前置するなど、ピアニストの「統一感」に対する主張が感じられる演奏会であった。
冒頭「幻想曲」と「ソナタ」は作曲家が意図したかのように続けて演秦されたが、ピアニストの(「さらなる」意図があってのことと想われるが)モティーフやフレーズあるいは楽節表現など、作品構成要素の表現における「独自性」の追究によって、全体は(逆説的に)ベートーヴェンの表現に通じる(ある)重厚さが前面に出たように感じた。「幻想曲」や「ソナタ」のそれぞれの楽章に散見する付点リズムの付点音符の(若干の)伸長や、第3楽章に特徴的な第3拍を(これも)若干の伸長させることにより(ある)独自性を感じさせる「個性的」といえる表現はしかし、作品の揺るぎない有機的緊張にある影を落とすもののようにも感じた。
《悲愴》の序奏(グラーヴェ)の表現に象徴される「記譜を遵守」する厳格でストイックな姿勢にピアニストの本領を見たように思った。続く主部も含めて全楽章にわたって作曲家の意図を体現する徹密さの表現を享受したが、ただそのことへの拘泥に起因するのか、音楽の推移における流動性がやや影を潜めたようにも感じた。さらに《悲愴》と《ワルトシュタイン》両ソナタに散見されるフェルマータの(やや過剰と思われる)冗長さも(同様に)全体の緊張をやや弛緩させてしまうように思った。
最後に、「アンダンテ・ファヴォリ」におけるまったく隙のない、「明晰な表現の整合性」を特筆する。
●石川哲郎
音楽の友 2021年1月号
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