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ヴァンダ・ランドフスカ
ワルシャワで生まれたポーランドの鍵盤楽器奏者。20世紀の初めに、当時ほとんど弾かれなくなっていたチェンバロによる演奏を復興した功績者として音楽史に名を残している。1939年の第2次大戦でドイツ軍がポーランドに侵攻し、アメリカに脱出。アメリカで演奏活動、教育活動を行った。
モーツァルトの演奏では、チェンバロのほかに、現代ピアノも弾き、現代ピアノによる演奏の可能性についても高い評価を下していたことは、以下の言葉からも読み取れる。 |
現代ピアノはそのダブル・エスケープメントのせいで、ぼやけた音のひびきを伝えやすい。しかし心得のある演奏者の熟練したタッチをもってすれば、現代ピアノからピアノフォルテの色彩と特色をひきだすことは可能なのだ。
現代ピアノの灰色の中性的な色調を燃えたたせ、これまで予想もされなかったような色彩を生ませることはできるのである。
ヴァンダ・ランドフスカ
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言うまでもなく、現代のピアノは、モーツァルト時代のピアノフォルテとは全く異なった楽器です。当時のピアノフォルテとまったく異なった現代の楽器で、モーツァルトの時代の音の美学を、表現できるのでしょうか。
それは可能だ、というのがランドフスカ女史の結論です。
チェンバロ、ピアノフォルテ、そして現代ピアノのすべてを知り尽くしていた女史のこの力強い言葉に、私はとても強く勇気づけられます。
オリジナル楽器だけがモーツァルトを再現できる、という”迷信”に、決してくじけてはならない、という勇気も与えてくれるような気がします。
モーツァルトを弾くのに不可欠なタッチというのは、その実質を指の柔らかな肉から得るのである。
それは輪郭のはっきりした肉づきのよい、しっかりした音、自立した音を生み出す。
そのすっきりと確定された輪郭は、まわりの音との膠着を一切受けつけない。
ヴァンダ・ランドフスカ
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モーツァルトの音が、ひとつひとつ明確であり、決して曖昧であってはならないことに異論はないことでしょう。
明確で肉付きの良い音は、「指の柔らかな肉」から得られる、というのは、やはり慧眼だと思います。だからこそ、繊細きわまりない、多様な音色が得られ、かつ、それらの音が自立できるのでしょう。
指先で弾くタッチでは、このような音を得ることは、むずかしいように思えます。
モーツァルトがシュタインのピアノフォルテの特色について、また彼自身の弾き方について述べている説明からも、ペダルは使用されるべきだということは明らかである。
ただし和声と旋律の折り目がぼやかされずに、すっきりと、鮮明に、透けて見えるままでいるように、節度をもった使い方をすべきである。
ヴァンダ・ランドフスカ
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ペダルの使いすぎは、どのような作曲家の作品を弾くときにも避けなければなりませんが、とりわけモーツァルトの作品を弾くときには、ペダルの使いすぎの罪は、大きなものだというように思います。
モーツァルトの音が、ひとつひとつ明確であり、決して曖昧であってはならないことに異論はないことでしょう。
即興的につけられる装飾は、霊感だけに任されていたわけではない。それは非常に厳格な法則に基づく一つの学間だった。
傑作の装飾にとりかかるには、まずそれらの法則を知らねばならなかった。
ヴァンダ・ランドフスカ
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モーツァルトを自由に装飾しながら、達者にかつ優雅に演奏できれば最高です。全くジャズ風の即興を入れる演奏者もあるほどで、このような演奏を誰も悪いと言うことはできないでしょう。
しかしやはりモーツァルトのピアノ作品に、本格的に向き合うとき、当時の「学問」の一端に触れることは悪いことではないと思います。
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ「正しいピアノ奏法」(上・下)、クヴァンツの「フルート奏法試論」、レオポルト・モーツァルトの「バイオリン奏法」、テュルクの「クラヴィーア教本」が参考になります。
モーツァルト自身は、緩徐楽章 ― それらは速い楽章より明らかに多くの装飾を必要とする ―を必ずしもつねにスケッチだけにとどめていたわけではない。細やかな注意と洗練された趣味をもって装飾をほどこしていることも多いのである。
この領域での彼のすぐれた技量を示す最もあざやかな例は、《ロンドイ短調》(K511)に見られる。
だから解釈者は、《ソナタ変ロ長調》( KV 333)第3楽章ではカデンツァを自由に即興演奏していいと感じるべきだが、《ロンドイ短調》のほうは、このうえなく従順な熱い献身をもつて演奏しなくてはならない
ヴァンダ・ランドフスカ
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有名なKV 511のロンドは、装飾におけるモーツァルトの語法を体で体得する上でも、繰り返し弾いて体に染み込ませる価値のある作品だと思います。
ほんとうのところ、カデンツァとはなんだろうか。
それは、すでに生起したことをいまいちど即興的に暗示すること、あるいはそれを振り返って眺めることなのかもしれない。
あるいはまた、われわれの好きな、もういちど見られればうれしいと思うような懐かしい場所を、そぞろ歩いてみることなのかしれない。
ヴァンダ・ランドフスカ
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これはとても含蓄のある、美しい文章ですね。
ランドフスカ女史はがここで、演奏者がそれまでの曲想から離れて、好き放題、自由気ままにカデンツァを弾きまくることを戒めていることは明らかです。
女史は、モーツァルトの弟子であるフンメルを、カデンツァの役割を卑属化させた張本人であると非難しています。
とりわけ、「勝ち誇る征服者の騒々しい音でもってカデンツァを開始する習慣」を持ち込んだことを憤慨しています。
確かに、フンメルの作品を弾くたびに、モーツァルトとの大きな距離と、その芸術性の落差を感じます。
モーツァルトはあらゆる歪曲的誇張、あらゆる無理、あらゆる花火的けばけばしさを忌みきらった。
ヴァンダ・ランドフスカ
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このことは、モーツァルト自身の手紙からもはっきりと窺えます。
そして、このような感性は、父レオポルドから受け継がれたということも、レオポルド自身の手紙を読むと確かだと思います。
もっとも、「花火的けばけばしさ」という表現を、表面どおり取ってもよくないと思います。
「パリ交響曲」や「後宮からの誘拐」序曲に見られる、花火のような華やかさは、ここでランドフスカ女史が戒めている邪道とは、まったく別の次元の話です。
(引用文献)ドニーズ・レストウ編「ランドフスカ音楽論集」
鍋島元子、大島かおり訳 (みすず書房)
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