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バルトは声について「きめ」(グラン)を間うたようにピアノについて「打つこと」(クー)を問う。
ルービンシュタインは打つことができない。許し難く凡庸な優等生アシュケナージはもちろん、時にすぱらしく重いピアニシモを聴かせる老練なブレンデル、そしておそらくポリーニさえ、打つことができないと言うべきだろう。
彼らは音楽の制度に余りにも見事に適合しているため、分節構造の内部のしかるベき位置に音を置いていくことしかできないのだ。
ナットやホロヴィッツは打つことを知っている。いや、打つというのは知ってできることでほない、彼らは音楽の制度から何ほどかずれているがゆえに、分節構造からはみ出るような音をどうしようもなく打ち出してしまうのである。
浅田 彰
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ルービンシュタイン、アシュケナージ、ブレンデル、ポリーニと、ナット、ホロヴィッツを分けるのは、何となくわかるような気がします。
ところで、肝心の「打つ」と言うことはどのようなことなのでしょうか。
浅田彰は次のように続けます。次をお読みください。
打つことにおいて身体の欲動が分節構造の只中に噴出する。だからといって、打つことを分節構造と双対をなす連続体の側に帰属させるようなことがあってはならない。
打つことはその両者の<間>であり境界点なのであって、打つ音のつらなりは連続体の側にも分節構造の側にも属さない独自のリズミックな運動体を形作るのである。
中沢新一は(「チベットのモーツァルト」の中で)連続体にポツンと点が打たれるときにもれる禅の笑いについて語っている。その点は連続体に属さないのと同様に分節構造にも属さず、あくまでも両者の<間>のパラドキシカルな場所にあってゆらめいている。ただそれだけのことが何ともいえずユーモラスな笑いを誘うのだ。
ひとたびそういう点のつらなったリズミックな運動体として世界をとらえることを知れば、硬直したニ元論や弁証法を持ち出す必要はさらになくなるだろう。バルトが「打つ音」と言うのも、まさにそのような点のことだと考えてよい。
半ば連続体に身をひたしつつそこからとび出そうとする点、自らのうちにずれや複数性を孕んだ点が、振動しながらつらなってレース模様を織りなしていくとき、そこに音楽が生まれる。
浅田 彰
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「打つ」という言葉、そして、その行為に、これほどの意味の広がりがあることを教えられます。
ピアノを弾くということの奥深さが暗示されているように思えます。
「ヘルメスの音楽」(ちくま学芸文庫)
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