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久元祐子 《学習するモーツァルト》 (2011/11/7)
2011/11/7
コジマ録音
ALCD - 9109
定価 2500円
録音 2011年6月12 - 14日
見附市文化ホール アルカディア
使用楽器 : ベーゼンドルファー・インペリアル
モーツァルト :ピアノ・ソナタ 変ホ長調 KV282
ヨハン・クリスティアン・バッハ :ピアノ・ソナタ ト長調 Op.5 - 3
モーツァルト :ピアノ・ソナタ ト長調 KV283 (189h)
ヨハン・クリスティアン・バッハ :ピアノ・ソナタ ニ長調 Op.5 - 2
モーツァルト :ピアノ・ソナタ ニ長調 KV284《デュルニッツ》
ピアノ:久元 祐子
Producer : Tomoko Tsuji
Director, Recording Engineer : Yukio Kojima
Piano Tuning : Katsumi Tsuda Digital Editing : Takako Yanagisawa
Notes : Yuko Hisamoto Cover Art(Front Cover) : Noroyoshi Sakaguchi
Photography : Shunji Yanagisawa Cover Design : Kazuhiko Hirasawa
Booklet Editing : Izumi Sugimura
ジャケットの絵は、第1集、第2集に続き、坂口紀良氏『バラのある音楽の部屋』です。
坂口先生に心より感謝申し上げます。
〜コレクションの宝物〜池内 紀(ドイツ文学者・エッセイスト)
沼津の千本松原の近くに乗運寺という古い寺がある。ひょんなことで住職と知り合った。あるとき、その和尚の口からヒサモト・ユーコがこぼれ出た。寺が経営している幼稚園でピアノを弾いてもらう。「ヒサモト先生」にお願いしている。
町の音楽教室の人だと思った。よく似た名前の人がいるものだ。そのうちヒサモト先生がピアニストの久元祐子だと知って驚いた。わがモーツァルト・コレクションに入っている。CDだけでなく、モーツァルトのピアノ曲の演奏法をめぐる本もある。世のピアニストがやりたがらない地味な、とても大切な勉強をきちんとやっている。そんなプロフェッショナルが「ハトポッポ」のピアノを弾きにきてくれるなんて……。
そのうち和尚さんのお世話で、小さな記念館のフロアで久元祐子の弾き語りのお相手役になった。久しく放置されていたピアノなのになぜか久元祐子が弾くと、百年の眠りから覚めたお姫さまのように澄んだ音をひびかせた。
彼女はそんな人なのだ。やさしくて)勁(つよ)い。高ぶらず、おだやかで、よく勉強する。モーツァルとバッハの末の息子の弾きくらべをするなんて、よほどしっかりした音楽観あってのことなのだ。五年、十年とかかわり、構造の細部にいたるまで眼と指先でたしかめた繊細で、シャレた演奏ゲームの贈り物だ。わがコレクションにまた一つ、ステキな宝物が加わった。
〜 学習するモーツァルト 〜 久元 祐子
モーツァルトが生きた時代、星の数ほどの音楽家が活躍し、モーツァルトも先輩たちの作品を学びながら成長していった。その中で、彼がもっとも気に入り、影響を受けた人物が、ヨハン・クリスティアン・バッハ(1735
- 82)だった。大バッハ、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685 - 1750)の末の息子に当たる。イタリアで勉強し、カトリックに改宗し、英国で活躍するなど、父親とはまったく異なる音楽人生を歩んだ。
モーツァルトがヨハン・クリスティアン・バッハと初めて会ったのは、1764年9月のこと。場所はバッキンガム宮殿だった。モーツァルトはクリスティアンの音楽に共感を覚えたのだろう。彼の作品5のクラヴィーア・ソナタの第2,3,4曲を、おそらくは1770年頃にクラヴィーア協奏曲に編曲している。クリスティアンの作品5のソナタは、1768年に出版されているが、フォルテピアノで弾かれることも想定して作曲された最も初期の作品である。
モーツァルト最初のクラヴィーア・ソナタのグループ ― KV279から284までの6曲は、記録は残っていないが、1774年から1775年にかけて、旅先のミュンヘンで作曲されたと考えられている。このときモーツァルトが、ハイドンとともにクリスティアンの作品を研究したことは間違いない。このCDでは、同じ調であるト長調の
作品5の3とKV283、そして、ニ長調 作品5の2とKV284を組み合わせてみた。特にそれぞれの第1楽章では、クリスティアンの影響をはっきりと感じることができるだろう。おそらくは、モーツァルトがこれらのソナタの作曲に先立つ数年前にクリスティアンの2曲をクラヴィーア協奏曲に編曲したとき、クリスティアンの語法や美学がモーツァルトの中に取り込まれていたのではないだろうか。
第3集<ハイドンとモーツァルト>で記したように、モーツァルトは、鍵盤音楽の分野では、ハイドンの作品を十分研究した上で別の道を歩むことにしたのではないかと思う。これに対し、ヨハン・クリスティアン・バッハの音楽はモーツァルトの心をとらえた。モーツァルトは、クリスティアンの影響の下に自らの作風を創り上げていき、比類のない高みに上っていったのだった。
1782年、ザルツブルクの大司教と決別してウィーンの音楽界を駆け上ろうとしていたモーツァルトに、ヨハン・クリスティアン・バッハ逝去の報が届く。モーツァルトはザルツブルクの父レオポルトに「音楽界にとってなんという損失でしょう」と書き送り、その死を悼んだ。
<プログラム・ノート> 久元 祐子
◆ モーツァルト:ピアノ・ソナタ 変ホ長調 KV282(189g)
第1楽章 Adagio 第2楽章 Menuetto
第3楽章 Allegro
第1楽章にアダージョの楽章が置かれて音楽はしっとりと始まり、第2楽章ではメヌエットのテンポに上げて、終楽章は活発なアレグロで閉じられる。
アダージョの第1楽章では、序奏風に穏やかな第1主題が現れ、第2主題も16分音符のアルベルティ・バスの伴奏の上に、やや動きのある旋律が奏される。第2楽章は、2つの部分からなるメヌエット。メヌエットUの部分は、変ロ長調のメヌエットTに対してW度調の変ホ長調がとられ、調性的にも変化は穏やかである。こうした自然な音楽の流れの中で、明るく典雅な気分が次々に変化していく。終楽章は、スタッカートと符点音符が組合わさった音型がオクターブ跳躍する、歯切れのいいテーマで始まる。4分の2拍子、アレグロ。活発な動きのある、快活な音楽。
◆ ヨハン・クリスティアン・バッハ:ピアノ・ソナタ ト長調 Op.5 −3
第1楽章 Allegro 第2楽章 Allegretto
ヨハン・クリスティアン・バッハは、少年時代兄のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハに育てられたが、イタリア音楽に憧れ、ミラノ大聖堂のオルガニストをつとめたり、ボローニャのマルティーニ神父のもとで作曲を勉強し、ナポリでオペラを作曲した。ヘンデルのようにロンドンで活躍したいと思い、英国に渡ったのは1762年のことだった。
ロンドンでは国王ジョージ3世の王妃シャーロット・ソフィアの音楽教師となり、王室の後ろ盾もあり、英国の人気作曲家としての地位を確立した。彼の鍵盤音楽作品が想定していた楽器は、やはりドイツ出身の鍵盤音楽制作者ズンペが考案したスクエア型のフォルテピアノだった。この楽器を想定して作曲された作品5のクラヴィーア・ソナタは、6曲からなる。
ト長調の第3曲は、ソナタ形式で書かれたアレグロの第1楽章と変奏曲形式の第2楽章の2楽章で出来ている。第1楽章のテーマを、モーツァルトのKV283の第1楽章のテーマと比べてみると、表面的には違っているように見える。モーツァルトのテーマに比べ、クリスティアンの方は音符が細かく、16分音符が多用されているからだ。しかしこの16分音符のいわば”刺繍”を取り除いてみると、ほぼ同じ旋律であることがわかる。その流れはしなやかで、柔らかく、空間的な広がりが感じられる。どちらも一種の美しい「歌」であり、ハイドンとは異なる歌心の世界だ。
この楽章を弾き進んでいくと、ほかにもKV283との共通点が見つかる。たとえば、第1主題の提示が終わり、推移部に入ると、第1主題と同じリズムで、音型と和声を変化させながら文字どおり「推移」し、次の第2主題に入っていくが、このやり方はKV283でも見られる。いわば第2主題への準備なのだが、音楽の流れがなめらかになり、自然に場面が転換されることになる。モーツァルトは、このような滑らかで自然な場面転換のしかけをクリスティアン・バッハから学んだのではないだろうか。
◆ モーツァルト:ピアノ・ソナタ ト長調 KV283(189h)
第1楽章 Allegro 第2楽章 Andante
第3楽章 Presto
全体にわたってモーツァルトらしい優雅で繊細な魅力に溢れている。第1楽章は4分の3拍子でメヌエットの雰囲気を持つ。オペラのアリアを思わせる分かり易い歌が対話風に歌われる。16分音符の細かいパッセージが続いた後に現れる第2主題は、シンコペーションのリズムが効果的な素朴な旋律で始まり、それがさまざまに装飾されて進んでいく。クリスティアンの作品5の3を研究した跡が窺える。
第2楽章はアンダンテ4分の4拍子。同音反復で始まる典雅で美しい歌がテーマとなっている。淡々とした雰囲気が支配するが、短い展開部ではテーマがニ短調で現れたり、フォルテとピアノの交替、左手の変化に富んだ動きなど意外性を見せる。短いコーダはフォルテとピアノの対比で穏やかに終わる。第3楽章はプレストの8分の3拍子。トリルを使った速い舞曲風の第1主題に、動きの少ない穏やかな第2主題が対比されている。同じ音型がピアノとフォルテで鋭く対比して繰り返され、音楽は力強い推進力をもって運ばれていく。
◆ ヨハン・クリスティアン・バッハ:ピアノ・ソナタ ニ長調 Op.5−2
第1楽章 Allegro di molto 第2楽章 Andante di molto
第3楽章 Minuetto
ニ長調の第2曲は、3つの楽章からできている。モーツァルトが《デュルニッツ・ソナタ》を作曲したとき、クリスティアンのこの曲の第1楽章を参考にしたことは間違いないと思う。まず冒頭だが、K284ではニ長調のトニック(主和音)がやや長く鳴らされ、ユニゾンで力強いテーマに入っていく。クリスティアンの曲では、やはりトニックの和音が3回続いて鳴らされ、いかにも彼らしい典雅で穏やかな旋律が後に続く。第1主題から推移部に入ると、どちらもまったく同じトレモロの伴奏が左手に現れ、ひじょうに似た雰囲気で音楽は流れていく。第2主題は一見すると似てはいないが、その歌うようで優雅な性格は共通している。おもしろいことに、第2主題に入る直前の音型は、まったく同じである。このようにそれぞれの部品の調、リズム、雰囲気、音型が共通していて、部品をつなぐ接続部までもが同じであれば、部品を取り替えても全体の構成は崩れない。たとえば第2主題を取り替えても、音楽としては成立するほどだ。
古典派音楽の象徴であるソナタ形式でできているこのふたつの楽章の提示部は、第1主題、推移部、第2主題、終結部に分けることができるが、モーツァルトはそれぞれの部品としてヨハン・クリスティアン・バッハととても似たものを使い、同じデザインで作曲したということがわかる。
◆ モーツァルト:ピアノ・ソナタ ニ長調 KV284(205b)《デュルニッツ》
第1楽章 Allegro 第2楽章 Rondeau en Polonaise (Andante)
第3楽章 Thema con dodieci variazioni
ニ長調の第6曲KV284は、ミュンヘンのデュルニッツ男爵のために作曲されたため、《デュルニッツ・ソナタ》と呼ばれることがある。このソナタは、6曲のソナタのみならずモーツァルトの全ソナタの中でも最も規模が大きく、かなり高度な演奏上のテクニックが要求される。
第1楽章は、アルペジオの和音が力強く鳴らされ、4分休符の後、ピアノとフォルテの対比によって第1主題が堂々と奏される。クリスティアンの作品5の2第1楽章の影響が強い。第2楽章は、アンダンテ、4分の3拍子の「ポロネーズによるロンド」。モーツァルトらしい優雅で明るい魅力に溢れている。ロンド形式で書かれているが、最初に出てくる愛らしいロンド主題が限りなくさまざまに装飾されて現れ、まるで変奏曲のような雰囲気を持っている。中間部は突然短調に変わるが、右手が同音反復をする一方、左手のアルベルティ・バスは半音ずつ降りていき、微妙な色彩の移ろいをもたらす。
終楽章は、テーマと12の変奏からなる大規模な変奏曲。すべて指示どおり繰り返せば優に18分はかかってしまう長大なものだ。第11変奏は、33小節にも及ぶアダージョ・カンタービレで、細かなパッセージが即興的な雰囲気を持って何回も繰り返される。
このソナタからは確かにクリスティアンの影響が強く感じられるが、明らかにモーツァルトの方が力強く、ダイナミックだ。クリスティアンが刺繍のような音型で音楽をたんねんに紡いでいくのに対し、モーツァルトは頻繁に休符を使い、音楽を切断し、そこにエネルギーを生まれさせ、そのエネルギーによって音楽を前に進めようとする。クリスティアンの音楽は優雅で上品だ。ロココ調の調度品に飾られ、香水がほのかに漂う部屋の中で、音楽はひたすら美しく流れていく。一方モーツァルトは、似た香りを漂わせながら、狭い空間の内部にとどまってはいない。モーツァルトの音楽は、空間的制約から離れて自由に飛翔する。この曲を弾いていると、クリスティアンにはないモーツァルトの才能のきらめきをはっきりと感じることができる。
このような作風の違いは、才能や感性の違いから来ることは当然だが、ふたりの音楽家が弾いていた楽器の違いも影響しているのかもしれない。クリスティアンが弾いていたツンペのスクエア型フォルテピアノは、小さな箱形の楽器だった。一方、モーツァルトがミュンヘンで弾いたであろう楽器の記録は残されていないが、大型のフリューゲル型の楽器であった可能性がある。
クリスティアンの作品を熱心に学習し、その影響の下に作曲された《デュルニッツ・ソナタ》。そこからは、才能の違いとともに、作曲家が出会った楽器の違いも見え隠れしているように思える。
■ 使用楽器 ベーゼンドルファー・インペリアル使用楽器 アントン・ヴァルター
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