Georg Christoph Wagenseil

18世紀半ばのウィーン楽壇

モーツァルトがウィーンに移り住んだ1781年は、いろいろな意味で、ウィーンの転換期でした。その前年の1780年、40年にわたって君臨していた女帝マリア・テレジア(Maria Theresa)が世を去り、息子のヨーゼフ2世が母親に気兼ねすることなく、改革に乗り出していたからです。
女帝マリア・テレジア右の肖像画は、ヨーゼフが皇帝に即位してから描かれたもので、母のマリア・テレジアを中心に、皇室一家が登場しています。
女帝マリア・テレジアの時代は、モーツァルト、そしてハイドンを中心に花開く、ウィーン古典派音楽を準備した時代ということが出来ます。
1740年、マリア・テレジア が女帝となったとき、ウィーンでは、フックスなどのバロック音楽が全盛期でした。
女帝の時代になると、ミサ、オラトリオ、オペラなどの面で、新しい音楽が現れてきました。また、器楽音楽の面でも、古典派の作風の前触れとなるような作品が生まれていきました。その代表は、マティアス・ゲオルク・モン(Mathias Georg Monn 1717 - 50)、ヨハン・クリストフ・モン(Johann Christoph Monn 1726 - 82)のモン兄弟によって作曲された交響曲でした。
モン兄弟によって作曲された交響曲は、4楽章形式で、第3楽章はメヌエットでした。
マリア・テレジアの音楽教師
マリア・テレジア女帝のウィーン楽壇の重要人物が、ゲオルク・クリストフ・ヴァーゲンザイル(Georg Christoph Wagenseil 1715 - 77)でした。マリア・テレジアの音楽教師、宮廷内の礼拝堂オルガニストなどをつとめた人物です。
このように、18世紀半ばのウィーンには、新しい感覚を持った優れた音楽家が活躍していましたが、ウィーンの音楽は、全体としてみると、パリやロンドンよりも低調だったようです。
1772年にウィーンを旅行したイギリスの旅行家チャールズ・バーニーは、ウィーンにはまだ楽譜屋がなかった、と報告しています。この時期すでに、パリやロンドンでは、クラヴィーアなどを演奏するための愛好家からの需要に応えるため、たくさんの出版社が活動していました。
ウィーンに出版社ができるのは、1780年のアルタリア社の創業まで待たなければなりません。ヴァーゲンザイルモーツァルトは、ウィーンに移り住む前から、しばしばウィーンを訪れていました。
7歳のときには シェーンブルン宮殿を訪れ、女帝夫妻の前で演奏しています。このとき、ヴァーゲンザイルに譜めくりを頼んだというエピソードも残されています。レオポルドがモーツァルトに与えて練習させた《ナンネルの楽譜帳》の中には、ヴァーゲンザイルの作品も収められています。モーツァルトは、ヴァーゲンザイルの作品が気に入っていたのでしょう。ロンドンに行き、バッキンガム宮殿で国王ジョージ3世の前で演奏したときも、ヴァーゲンザイルの作品を弾いています。
ヴァーゲンザイルの作品

ヴァーゲンザイルは、トリオ・ソナタ、交響曲、伴奏付きソナタのほか、チェンバロのためのソナタも作曲しています。ヴァーゲンザイルは、チェンバロのためのソナタを「ディヴェルティメント」と呼んでいますが、この用語法はハイドンの初期のクラヴィーア・ソナタにも引き継がれています。
ヴァーゲンザイルは、モーツァルトが生まれる前年の1755年、ウィーンで《チェンバロのための6つのディヴェルティメント作品2》を出版しています。6曲とも、3つまたは4つの楽章からなり、第1楽章はいずれも速い楽章で、どの曲にも必ずメヌエットの楽章が入っています。
このうち、第5番ハ短調 第1楽章 第5番 ハ短調 第1楽章 は、明らかにソナタ形式で書かれており、ハ短調と変ホ長調の二つの主題を持った提示部が、反復され、短い展開部があり、再現部に入ります。ただ、この楽章のテーマは、符点のリズムが特徴的な短い音型が現れ、その繰り返しから出来ています。そして頻繁にターンやトリルが出てきて、音楽の動きは装飾的で実に細かいのが特徴です。
 この主題からは、モーツァルトのようなくっきりとした輪郭は聞き取れません。第2主題が現れた後の運び方は、右手は32音符とトリルの連続、左手の伴奏は16音符でムルキー・バスが鳴り続け、典型的なギャラントな音楽となります。

 ヴァーゲンザイル:チェンバロのためのディヴェルティメント 
                   第5番 ハ短調 第1楽章 
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