Domenico Cimaroza


魅力的なピアノ・ソナタの作曲家
18世紀後半のイタリアを代表する作曲家、ドメニコ・チマローザ(Domenico Cimaroza 1749 - 1801)のクラヴィーア・ソナタは、以前から知っていましたが、演奏会の中で弾いたのは、2002年の七夕に行われた、陣内秀信先生との対談コンサートのときでした。
このとき、私は、変ロ長調のソナタを弾いたのですが、このソナタがすっかり好きになりました。
第1楽章は、歯切れの良さと心地よいリズム感にあふれています。テーマの訴求力はなかなかのもので、一度この楽章を聴いたら、テーマはきっと耳に残ることでしょう。第2楽章は、歌う喜びにあふれていますし、第3楽章は、運動するエネルギーの快さを感じることが出来ます。
このソナタを弾いていますと、古典派のソナタのもっとも洗練された、自由闊達な姿を感じます。
そしてそれは、おそらくはオペラの世界をクラヴィーア音楽に置き換えたもののように思えます。オペラのアリアや間奏曲が、生き生きと蘇ってくるような気がします。

変ロ長調のソナタを、クラビノーヴァで弾いた演奏を、MIDIでお聴きください。

 チマローザ:クラヴィーア・ソナタ 変ロ長調 第1楽章

                          同 第2楽章

                         同 第3楽章
波瀾万丈の人生

メニコ・チマローザは、1749年12月17日ナポリ近郊の町アヴェルサで生まれました。生家は音楽とは関係のない貧しい家だったようですが、音楽に造詣の深い神父に見出され、ナポリで勉強して、次第に頭角を顕すようになります。当時ナポリは、イタリア・オペラの中心で、ナポリの音楽院には、ヨーロッパ中から才能のある若者が集まってきて、腕を競い合っていました。
ドメニコ・チマローザやがてオペラを手がけるようになり、その名声はイタリアのみならず、ヨーロッパ全土に知られるようになります。そしてチマローザに注目したのが、ロシアのエカテリーナ2世でした。1787年、女帝はチマローザを帝都サンクト・ペテルブルグの宮廷楽長に迎えます。ロシアには、すでにガルッピ、ハイジエッルロ、サルティも招かれており、イタリア人音楽家としては名誉ある、重要な地位でした。
チマローザはサンクト・ペテルブルクに4年間滞在し、1791年、イタリアに向けて旅立ちますが、途中でウィーンに立ち寄り、皇帝レオポルト2世にも引き留められてウィーンでオペラも上演します。当時すでにモーツァルトは亡くなっていました。
チマローザはその後懐かしいナポリに向かうのですが、当時のイタリアを激動の嵐が襲っていました。ナポレオン率いるフランス軍がイタリアに侵入、1799年にはナポリもフランス軍に占領され、共和制に移行します。
チマローザは「共和国賛歌」をつくって共和国政府に恭順の意を示しますが、半年後には国王の軍隊が奪回し、王制が復活します。チマローザは今度は、王国への賛歌をつくってナポリ国王に献呈しますが、国王側は裏切りを許そうとはせず、投獄されてしまいます。
何とか処刑をまぬがれて釈放されるのですが、政治と戦争に翻弄された音楽家の心身はもはや回復不可能なほどにむしばまれていました。彷徨うようにヴェネツィアにたどり着いたのもつかの間、1801年1月11日、あっけなく世を去りました。
支配者の交替に翻弄された、悲劇の一生でした。

スタンダールも絶賛
チマローザはモーツァルトと同じ時代を生きましたが、チマローザの人生はモーツァルトと交差することなく、この二人の音楽家は会うことはなかったように思えます。モーツァルトの膨大な手紙の中には、たくさんの音楽家の名前が出てきますが、私が調べた限りではその中にチマローザの名前はありません。
ブルク劇場しかし、モーツァルトがチマローザのオペラのことをよく知っていたことは確実です。チマローザのオペラは、1780年代にウィーンでも上演されていたからです。1789年9月6日、ブルク劇場(右の絵)で、チマローザのオペラ『青砦の二人男爵』が初演されましたが、モーツァルトはこのオペラの中で歌われるアリア『大いなる魂と高貴な心は』KV578を作曲しています。歌ったのはルイーズ・ヴィエヌーヴで、彼女は『コシ・ファン・トゥッテ』で歌うことになっていたのでした。
チマローザのオペラは、19世紀に入ってからも高い評価を得ました。文豪スタンダールは、モーツァルトとともにチマローザの音楽に魅了され、その美しさを絶賛しています。


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