Johann Christian Bach

ミラノの、あるいはロンドンのバッハ
ヨハン・クリスティアン・バッハ (Johann Christian Bach 1735 - 82)は、大バッハ、ヨハン・セバスチャン・バッハの11番目の、そして一番下の息子として生まれました。1750年、15歳のときに父の大バッハが死ぬと、ベルリンの兄カール・フィリップ・エマヌエル・バッハに預けられ、その教育を受けました。
しかし、エマヌエルの音楽とその教育はクリスティアンの肌に合わなかったのでしょう。ベルリンで観たイタリア・オペラの魅力に魅せられ、20歳のときにイタリアに赴きました。そしてカトリックに改宗し、ミラノ大聖堂のオルガニストを7年間つとめています。
その後ボローニャのマルティーニ神父のもとで作曲を勉強し、ナポリでオペラを作曲した後、ヘンデルのようにロンドンで活躍したいと思い、1762年、イギリスに渡りました。モーツァルトがロンドンにやってくる2年前のことでした。
ヨハン・クリスティアン・バッハは、まもなく国王ジョージ3世の王妃シャーロット・ソフィア(右の肖像)の音楽教師として王室に仕えるようになります。。シャーロットはドイツのメクレンブルク=シュトレーリッツの王女でした。国王ジョージ3世自身もヘンデルの音楽を深く愛好するなど、当時のイギリス王室は挙げてドイツ人音楽家に好意的でした。
1764年5月、ロンドンを訪れていたモーツァルトは、バッキンガム宮殿に招かれ、ヴァーゲンザイル、アーベル、ヘンデルの作品とともにクリスティアン・バッハの作品を初見で演奏しました。
このとき以来二人は年の差を超えてすっかり意気投合し、クリスティアン・バッハは、モーツァルトを膝の上に乗せ、一台のチェンバロをかわるがわる弾いて遊んだといいます。
J.C.バッハの作品
.C.バッハの作品は約450曲に上るとも言われていますが、その約3分の2が器楽曲です。モーツァルトは、J.C.バッハの交響曲、クラヴィーア協奏曲、クラヴィーア・ソナタなどを研究し、自らの作風に取り込んでいったと考えられます。
クラヴィーア・ソナタとしては、1768年に出版された6曲の作品5のソナタ、また、1779年に出版された同じ6曲の作品17のソナタが重要です。
モーツァルトは、ザルツブルクに戻ってからこの作品5のソナタをクラヴィーア協奏曲に編曲しています。とても気に入っていたのでしょう。
このソナタは、モーツァルトのクラヴィーア・ソナタにはっきりと影響を与えたと思います。しかし、その影響を受けてつくられた作品は、ミュンヘンで作曲された初期の6曲のソナタ(K279− KV 284)であり、アインシュタインなどが主張しているように、名作変ロ長調 KV 333ではないと思います。
この点については、小著「モーツァルトのクラヴィーア音楽探訪」をご参照ください。
そのような比較を離れ、J.C.バッハのソナタは、それ自体とてもチャーミングな作品で、もっと弾かれてもよいのではないかと思います。頭や体の中にある緊張感がいつしか解きほぐれていくような、優雅で上品な音楽です。

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