Georg Frederic Handel

バロックの大家
大バッハと並んでバロック音楽を代表する大作曲家とされ、「音楽の母」と呼ばれるゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル (Georg Friedrich Handel  1685 - 1759)の生涯は、モーツァルトとほんの少し重なっています。その意味で、モーツァルトの同時代人ですが、当然のことながら、モーツァルトがヘンデルに会うことはありませんでした。
ヘンデルは、大バッハと同じ年に、ザクセン地方のハレに生まれました。最初はハレの大学で法律を学びますが、音楽への道に進むことにし、ハンブルクに赴き、当時のドイツで大きな影響力を持っていた理論家のマッテゾンに出会いました。1705年には、最初のオペラ「アルミーダが作曲されています。
翌1706年、イタリアに赴き、ヴェネツィア、フィレンツェなどでオペラを作曲しました。
ドイツに戻り、1710年、ハノーヴァー選帝候のゲオルク・フリードリヒの宮廷楽長に任命されますが、1712年にはロンドンに移り住みます。イギリスのアン王女が死去し、スチュアート王朝が絶えると、係累のハノーヴァー選帝候ゲオルク・フリードリヒがジョージ1世として即位し、今日のイギリス王室に至るハノーヴァー王朝が始まりました。ヘンデルは、ジョージ1世支配下のイギリスで、本格的な活動を開始し、1727年にはイギリスに帰化しました。このため、海外では、「ハンデル」と呼ばれることが多いようです。
ロンドンでの前半の作品としては、オペラが目立ちます。「ジュリアス・シーザー(1724年)、「忠実な羊飼い」(1734年)、「アリオダンテ」(1735年)などが作曲されました。
後期には、オラトリオが目立ちます。すでに、1736年には、「アレキサンダーの饗宴」がつくられていますが、1742年には代表作「メサイア」が初演、続いて、「サムソン」(1743年)、「ヘラクレス」(1745年)などがつくられています。
管弦楽作品としては、「水上の音楽」「王宮の花火の音楽」、合奏協奏曲集などが知られます。
クラヴィーアのための作品は、クラヴィーアのための組曲が何曲かあり、「調子の良い鍛冶屋」と呼ばれる作品が入っている、ホ長調の組曲がよく知られています。
モーツァルトとヘンデル
モーツァルトは、神童時代にロンドンを訪問していたこともあり、子供の頃からヘンデルのことを知っていたと思われますが、本格的にヘンデルを研究したのは、ウィーンに移り住んでからのことでした。そのきっかけを与えたのは、ウィーンにおけるモーツァルトの最大の後援者であった、ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵でした。
スヴィーテン男爵は、オーストリア帝国政府の要人であり、1770年から1777年まで駐プロイセン大使としてベルリンに滞在しました。スヴィーテン男爵は、、フリードリヒ大王とも親しい交友関係を持ち、大王に以前に召し抱えられていたカール・フィリップ・エマヌエル・バッハとも知り合いましたし、流浪の生涯を送り、弟のもとに身を寄せていた大バッハの長兄ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの演奏に接したこともありました。この時代、ウィーンを含めヨーロッパの各地で大バッハの音楽が演奏されることはほとんどありませんでしたが、バッハ兄弟、そして大バッハの音楽に接したスヴィーテン男爵は、その音楽の偉大さを確信したのでしょう。彼はベルリン滞在中に、大バッハの作品を熱心に収集しました。これにヘンデル、バッハ兄弟の作品をも加えた男爵のコレクションは、当時稀に見る規模のものでした。
モーツァルトは、ウィーンに移り住んで間もない1782年、スヴィーテン男爵が自宅で開くコンサートに顔を出し、本格的にヘンデルを知るようになりました。そして、スヴィーテン男爵は、モーツァルトに、ヘンデルの作品の編曲を依頼します。こうして、ヘンデルの仮面劇「アキスとガラテア」(1788年編曲)、オラトリオ「メサイア」(1789年編曲)、「アレクサンダーの饗宴」(1790年編曲)、「聖セシリアの祝日への讃歌」(1790年編曲)が編曲されています。
スヴィーテン男爵は、モーツァルトの編曲について、「ヘンデルをまったく壮麗に、しかも様式感にあふれるかたちで美しく表現することができ、そのため、一方では流行の最先端を行く伊達者にも気に入り、しかも他方では、それでもいつもおのれを崇高さのうちに開示する人、そういう人はヘンデルの価値を感じ取り、彼を理解した人であり、彼の表現の源泉に到達した人であり、そこから確実に汲み尽くすことが出来る人であり、汲み尽くすでしょう」と書き送っています(1789年3月21日付の手紙。モーツァルト書簡全集Y 487頁 白水社)

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