Antonio Salieri

ウィーンの宮廷楽長

「モーツァルトの暗殺者」といういわれのない汚名を着せられ、そのことのみで後世に名前が残っている、ある意味で悲劇の音楽家です。
アントニオ・サリエリ(Antonio Salieri 1750 - 1825)は、イタリアのヴェローナ郊外に生まれました。
子供の頃に両親を失い、音楽の勉強をするためにヴェネツィアに行きますが、ウィーン楽壇の大物、フローリアン・レオポルド・ガスマンに見いだされ、ウィーンに出て、24歳の時、宮廷作曲家兼イタリアオペラの作曲家になりました。
そしてモーツァルトなどをさしおいてウィーンの音楽家の最高の地位である宮廷楽長になり、亡くなる直前までその地位にありました。
サリエリは、グルックの影響を受け、オペラ作曲家として人気を博しました。作曲家としての第一線を退いてからも、ウィーンで最も影響力のある音楽家として一目置かれる地位にあり、ベートーヴェンやシューベルト、リストも彼に学びました。
ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタの幾つかは、サリエリに捧げられています。サリエリは、作曲家としてだけではなく、指揮者としても活躍し、ハイドンの有名なオラトリオ《天地創造》の指揮をしている場面が絵として残されています。

モーツァルトの暗殺者?
モーツァルトの死後、サリエリがモーツァルトを毒殺したらしいという噂がウィーン中に広がりました。サリエリが毒薬でモーツァルトを暗殺しようとしているイラストが音楽会のプログラムに載せられたり、サリエリのモーツァルト毒殺にまつわる噂が幾度となく新聞や雑誌に掲載されました。
1823年、当時73歳のサリエリは、老衰のためにウィーン総合病院に移されました。自分がモーツァルトを毒殺したという噂が繰り返し流れていることは、死の床にあったサリエリの耳にも届いたのでしょう。見舞いに訪れた弟子の作曲家モシェレスに涙ながらに自分の無実を訴えたと言われます。

モーツァルトとサリエリが本当のところどんな関係にあったのかはよくわかっていません。サリエリを警戒する手紙が残っている一方で、親しげに食事をしたりもしていたようです。
モーツァルトウィーンに住むようになるのは、1781年のことですが、モーツァルトはかなり前からサリエリのことを知っていたことは確かです。モーツァルトは少年時代にウィーンに旅行をしたことがありますが、このときサリエリが作曲したオペラのアリアをもとに、変奏曲を作曲しているからです。
この《サリエリのオペラ「ヴェネツィアの市」の中の「わが愛しのアドーネ」による6つの変奏曲 K180》を弾いていますと、後年のおどろおどろしい噂とは全く無縁の、いわば陰りのない明るさを感じます。
サリエリのクラヴィーア協奏曲
サリエリはオペラ作曲家として名をあげましたが、クラヴィーアの独奏曲は残してはいないようです。
クラヴィーア協奏曲は、アンドレアス・シュタイアーのピアノフォルテ、コンチェルト・ケルンの管弦楽が録音しているCDで聴くことができます。確かに同じ時代に同じウィーンに創られた作品だけあって、モーツァルトのクラヴィーア協奏曲と似た雰囲気を持っています。
18世紀ウィーンの豊穣の音楽世界の中から、現代の私たちが敢えて選り好んで聴く価値がある作品であるかどうかは、議論が分かれるところです。

私は、聴いて初めてのときに、拒絶感がありましたが、不思議に繰り返し聞くと、馴染んでくるところがあります。

(このページの肖像は、Lions Club Legnago からお借りしています。)

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