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- レオポルト2世
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バーデンから帰ったモーツァルトは、ヴァン・スヴィーテン男爵からの依頼でヘンデルのオラトリオ《アレクサンダーの饗宴》などの編曲に勤しみました。
亡くなった皇帝ヨーゼフ2世の跡は、トスカナ大公をしていた弟が、レオポルド2世として即位しました。かつてモーツァルトが十代のとき、父レオポルドが、ミラノのフィルミアーン伯爵を通じて就職を働きかけた皇子です。あれから20年の歳月が流れようとしていました。
新皇帝は、トスカナの治世では名君として知られていたようですが、フランスで革命がいよいよ燃えさかり、広い国土のあちこちで不穏な動きが相次ぐ中、音楽にかまけている時間はあまりなかったようです。それに、音楽の趣味も兄のヨーゼフ2世とはかなり違っていました。
モーツァルトは自分を雇ってくれるよう嘆願書を出しますが、顧みられることはありませんでした。
宮廷では、宮廷楽長のアントニオ・サリエリがその地位を保ちます。モーツァルトが嘆願書の中でサリエリの悪口を書いたことも、あちこちの反発を招いたようですらも窺えますように、今でものどかな田園地帯です。
- シカネーダー
- モーツァルトはこの頃、翌年に《魔笛》の脚本、興業をすることになる、エマヌエル・シカネーダー(Emanuel Schikaneder 1751 - 1812)(右の肖像画)と一緒に仕事をするようになっていました。モーツァルトはシカネーダーは、モーツァルトがザルツブルクにいた頃からの知り合いでした。
この年、シカネーダーの台本により、ベネディクト・シャック(Benedikt Schack、1758-1824)が作曲したオペラ《賢者の石》の制作が行われましたが、モーツァルトは、このオペラにデュエットをつくっています。
この作品が、 喜劇的二重唱「さあ、いとしき乙女よ、共に行こう」KV625(592a)です。
オペラ《賢者の石》は、9月11日、ウィーンのアウフ・デア・ヴィーデン劇場で初演されました。
モーツァルトはこのシャックのオペラの一節を使って、翌年クラヴィーアのための変奏曲を書いています。(KV613)
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