ウィーン 7

1787.11.16 - 1789.4.8

.

モーツァルトの旅 1
モーツァルトの旅 2
モーツァルトの旅 3
モーツァルトの旅 4
ウィーン 4
ザルツブルク 11
リ ン ツ
ウィーン 5
地 図
プ ラ ハ 1
ウィーン 6
プ ラ ハ 2
ウィーン 7
ドレスデン
ライプツィヒ 1
ポツダム
ライプツィヒ 2
ベルリン
ウィーン 8
バーデン
ウィーン 9
フランクフルト 2
マインツ 2
マンハイム 3
ミュンヘン 7
ウィーン 10
プ ラ ハ 3
ウィーン 11
宮廷作曲家

モーツァルトがプラハからウィーンに戻ってくる前日の1787年11月15日、ウィーンで最高の名声を誇っていたグルックが世を去りました。グルックは、ヨーゼフ2世の宮廷作曲家の地位にあり、皇帝はグルックの死によって空いた席にモーツァルトを任命しました。
12月初旬、モーツァルト一家は、市外のラントシュトラーセから、再び市の中心にあるホーエ・マルクト(左の絵)の住居に引っ越しました。
宮廷音楽家となったモーツァルトは、サロンなどでもなかなかの人気だったようですが、翌1788年2月から始まったトルコとの戦争は、ウィーンの生活を次第に暗いものにしていったようです。
モーツァルトの音楽人生も、光と影が交錯するようになります。宮廷作曲家として、また売れっ子の音楽家としての華やかな活躍 ― その一方で、生活は逼迫し、借金を重ねていく生活がその死まで続くことになります。
1788年の夏には、有名な三大交響曲(K543,K550,K551)が作曲されますが、 この音楽史上に燦然と輝く不朽の名作の成立や演奏については詳しいことはほとんど分かっていません。

北方への旅行
モーツァルトの熱心な後援者、ヴァン・スヴィーテン男爵は、バッハ、ヘンデルなどバロック音楽の研究家でもありました。その薦めでモーツァルトは、ヘンデルのオラトリオ《アキスとガラテア》を編曲し、これは、宮廷図書館(右の絵)において、1788年11月に演奏されました。
モーツァルトはヘンデルの《メサイア》の編曲もしていますが、エステルハージー伯爵の邸で《メサイア》の指揮をした翌日の1789年4月8日、ベルリンなど北方を目指し、ウィーンを出発しました。
同行者は、カール・リヒノフスキー侯爵。(Karl Lichnowsky   1756-1814). 公爵は、モーツァルトのクラヴィーアの弟子で、モーツァルトの後援者、トゥーン伯爵夫人の娘と結婚していました。侯爵は後にベートーヴェンの熱心な後援者となる人物です。
この旅行の目的ははっきりしていませんが、侯爵にはザクセン公国に領地があり、プロイセン帝国の宮廷があるポツダムにも出向くことになっていました。侯爵はいわば自分の里帰りにモーツァルトを誘ったのかもしれません。

次 へ

top