ウィーン 10

(1790.11.10 - 1791.8.25 ?

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ウィーン 10
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ウィーン 11
「春への憧れ」

モーツァルトがフランクフルト旅行からウィーンに戻ったのは、1790年11月10日でした。モーツァルトの留守中、コンスタンツェは息子を連れて引越しをしていました。今度の住まいは市内のラウエンシュタイン・ガッセで、かなり広い家でした。この家でモーツァルトは息を引き取ることになります。
暮れの12月14日、イギリスの興業主ザロモンの招きでロンドンに渡るヨーゼフ・ハイドンの送別の宴が開かれ、モーツァルトも出席しました。これが偉大な二人の音楽家の永遠の別れとなりました。
モーツァルト最後の年となる1791年1月5日、作品目録には、変ロ長調 KV595のピアノ・コンチェルトが書き込まれています。そしてこの名作のフィナーレのテーマを使って、1月14日には、歌曲「春への憧れ」が生まれています。


5月9日、モーツァルトは、聖シュテファン大聖堂の副楽長に任命されました。副楽長のポストは無給でしたが、楽長になることができれば、多額の報酬が期待できました。

《魔笛》の作曲
モーツァルトはすでにシカネーダーとは知り合いでしたが、ふたりが《魔笛》の相談を始めたのは、1791年春のことだったと考えられます。シカネーダーは、ウィーンの郊外にアウフ・デア・ヴィーデン劇場を建て、ここで次々に大衆にも理解されるようなジングシュピールを上演し、評判になっていました。
シカネーダーはモーツァルトと同じくフリーメイスンの会員で、何度も話し合っているうちに、フリーメイスンの思想を表したオペラの構想が出来上がっていったのでしょう。
モーツァルトが本格的に《魔笛》の作曲を始めたのは、1791年5月頃だったと考えられます。この頃、妻コンスタンツェは、バーデンに保養に出かけていました。シカネーダーは、劇場のすぐそばにあった小屋でモーツァルトに作曲を急がせました。
この小屋は、現在ザルツブルクに移築されています。
映画《アマデウス》では、モーツァルトやシカネーダー、それに出演した歌手たちが小屋の中で明け方までどんちゃん騒ぎをする場面が出てきますが、たぶんこんな光景も繰り広げられたことでしょう。

ところが作曲の途中で、別のオペラの仕事が舞い込みます。プラハで行われることになっていた皇帝レオポルド2世のボヘミヤ王としての戴冠式のためのオペラの注文でした。モーツァルトが《魔笛》の作曲と並行して書き上げたのが、オペラ・セリア《皇帝ティトの慈悲》でした。

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