リンツ 1

1762.9.26 - 10.4

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モーツァルトの旅 1
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モーツァルトの旅 2
モーツァルトの旅 3
モーツァルトの旅 4
最初の手紙
モーツァルトの父レオポルトは、膨大な手紙を残しており、それらは、モーツァルトに関する重要な手かがりを提供するとともに、18世紀後半のヨーロッパの風物、習慣、日常を知る上でも貴重な手がかりを与えてくれます。
レオポルト、そして、物心ついてからは、モーツァルトもたくさんの手紙を書くようになるのですが、それらの手紙の多くは、旅先から書かれました。
レオポルトがモーツァルトを連れて旅行したのは、1762年1月から2月にかけて行われたミュンヘンでの演奏旅行が最初ですが、この旅行中の手紙は今日残されていません。
リンツ

レオポルトが、モーツァルトを伴った演奏旅行中に最初に書いた手紙は、ウィーンへ赴く途中に立ち寄った、リンツからの手紙が最初です。この手紙は、1762年10月3日付けで、ザルツブルクの家主ハーゲナウアー宛に書かれました。
ヨハン・ロレンツ・ハーゲナウアー(1712 - 92)は、モーツァルト一家が家を借りていた家主で、レオポルトは彼にとても親近感を持ち、心を許していたようです。旅先からたくさんの手紙が、ハーゲナウアー宛に書かれています。
リンツは、現在、オーバーエステライヒ州の州都で、人口は20万人あまり。ウィーン、グラーツに次ぐオーストリア第三の都市です。現在では、ザルツブルクから特急で約1時間で着いてしまいます。
七年戦争の影
モーツァルトが生まれた1756年に始まった七年戦争は、モーツァルト一家のウィーン旅行が行われた1762年には終盤を迎えていました。
この戦争は、イギリス支援を受けたプロイセンと、ロシア、フランス、スウェーデン、スペインなどと結んだオーストリアとの戦争でした。オーストリア継承戦争でシュレジエン地方をプロイセンに奪われたオーストリアの女帝マリア・テレジアは、諸国と結び、その奪還を狙います。プロイセンのフリードリヒ大王(左の絵は、軍隊を閲兵する大王)は機先を制するべく、先制攻撃に踏切り、戦争が始まりました。
モーツァルト一家がリンツを訪れた当時、リンツには、オーストリア軍に捕らえられたプロイセン軍の捕虜がいたようです。 レオポルトは、
「当地には、1500人ものプロイセン軍の捕虜がいますが、二日前にはまた600人もやってくるのを見ました。私の気に入らないのことは、プロイセンの土地の者をすべて雇い入れるのではなく、かなり多くの者たちがわれわれの仕事にこきつかわれていることです。彼らは徴集されてから、謀叛して、装備をくすね、裏切り者の役を演じるのです」を報告しています。
レオポルトの常識的で冷静な観察眼が窺えます。

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