Yuko HISAMOTO

           久元 祐子 著書 書評
  • 名器から生まれた名曲Aショパンとプレイエル・ピアノ
  • 名器から生まれた名曲@モーツァルトとヴァルター・ピアノ
  • 「原典版」で弾きたい! モーツァルトのピアノ・ソナタ
  • 作曲家ダイジェスト ショパン
  • モーツァルトのピアノ音楽研究
  • 作曲家別演奏法U モーツァルト
  • 作曲者別ピアノ演奏法
  • モーツァルトー18世紀ミュージシャンの青春
  • モーツァルトはどう弾いたか
  • モーツァルトのクラヴィーア音楽探訪
 

《モーツァルトのクラヴィーア音楽探訪・天才と同時代人たち》 音楽之友社

book

序章   18世紀半ばのクラヴィーア音楽
第1章  ザルツブルクとその音楽
第2章  神童の旅・音楽との出会い
第3章  成熟への旅立ち
第4章  絶頂期のクラヴィーア音楽
第5章  行き止まりの音楽
結び   モーツァルトのピアノ音楽再考

(1998年1月刊行)




毎日新聞(平成10年10月14日) 企画特集  ブックウオッチング

音楽の大転換期、モーツァルトは同時代の音楽家の作品を研究し取り入れつつ、その作風を構築した。演奏で「園田高弘賞」、著作で「毎日21世紀賞」を受賞した知性派ピアニストが、演奏と通じての実感と洞察力で、天才の定説を超えた実像に迫る。音楽の革命期を生きた彼のクラヴィーア音楽を、同時代の音楽家たちの作品と比較し、時代の中でよみがえらせる。

日本経済新聞 (平成10年9月20日) 弾きつつ書いたピアノ曲の魅力
  (あとがきのあと)

「クラヴィーアを初見で弾くなんて、ぼくにとってはウンコをするようなものです。」―冒頭で、いきなりこんな言葉が出てくる。モーツァルトの手紙からの引用だが、「母から『何て品のない書き出し』と怒られました」と当人も、ちょっと恥ずかしそうに笑っている。
 クラヴィーアとは鍵盤(けんばん)楽器の総称。モーツァルトのピアノ曲に的を絞り、その魅力と成立の背景を一般向けにわかりやすく書き下ろした。演奏家は音ですべてを語れ、という声もある中、「文を書くということで頭が整理され、少しでもいい演奏ができるのであれば」という思いから、執筆活動や解説付きのコンサートを行ってきた。

 数あるピアノ曲から、モーツァルトを拾い上げた理由はいくつかある。小さいころ、父が買ったきたレコードでモーツァルトを知り、「何て透き通った世界なのかしら」と驚いて以来、気になって仕方のない存在。やがてピアノを始め、和声を習うようになると「透明さの裏で音をものすごく踏みつけにしたり、大胆な不協和音を使ったりしていて、もう一度びっくりした」という。「いざ弾くと、手に入ったと思っていた音がスルリと逃げてしまう」。そんな神秘性にひかれ、研究へのめり込んでいくさまは、文章からも確実に伝わってくる。
 モーツァルトは手紙好きでオペラには始終ふれるのに、クラヴィーア曲については意外なほど、言葉を残さなかった。「神童時代から演奏して曲を書き続けた楽器だけに余りに日常的だったのかもしれない」と言い、「日常の象徴として『ウンコ』を引用したのですが……」と釈明する。
 バッハの息子たちなど同時期の作曲家との作風の違いにも行数を割き、時代精神から肉付けを試みた。「とにかく本を読んで、一曲でも多くモーツァルトを聴く人が増えたら本望」と願っている。

「音楽の友」(平成10年12月号) 新刊書評 

 モーツァルトのクラヴィーア曲という地味なジャンルに新しい光を当てた評伝的な研究である。譜例が随所に掲げられ、各曲のくわしいアナリーゼが展開されているが、けっして堅苦しくはなく、わかりやすい。モーツァルトのピアノ曲を一度でも弾いたことのある人にとって示唆に富み、またそれらを聴き親しんでいるファンも、著者の冴えたセンスと説得力に思わず引きつけられるはずだ。
 モーツァルトは少年時代からヨーロッパ各地を楽旅し、さまざまな様式を養分として自分の音楽を太らせてきた。クラヴィーア曲も例外ではない。著者はその影響関係をたんねんに跡づけ、当時の鍵盤楽器の発達と噛み合わせながら、彼のクラヴィーア曲の特質を追究してゆく。彼はさまざまな影響を受けながらも、それらを濁らせることなく、鋭敏な勘の冴えで純なひびきに蒸留させ得た。そこに彼の真の天才性があったと言える。
 それはすでに彼の初期の作品に見られ、著者はその特徴を「音の動きのみを楽しむのではなく、また自分が創った旋律に酔うことなく、広やかな音楽空間を形づくる」と捉えている。つまり彼は幼くして客観的な眼をもち、その怜悧さが彼の音楽に普遍性を与えるファクターになっていったわけだ。
 この客観的な眼は、また著者自身心がけている内的規範でもあって、それはこれまでのほかの研究者の成果を公平に扱おうとする潔癖さとなってあらわれている。もちろんそれはモーツァルトのクラヴィーア曲の評価にも当てはまる。著者は、彼のクラヴィーア曲は独自の完成を遂げるあまり、最後には行き止まりの世界に入っていったとし、よくある大団円的な美化に終わらせていない。これもそのエートスのなせるわざにちがいない。
 この結論部には鋭いひらめきが見られる。しかしこれまでのアナリーゼの緻密な展開にくらべ、ここだけ飛躍気味の観が否めず、それがちょっと惜しい。モーツァルトの交響曲やピアノ協奏曲は晩年になるにつれて、規模の大きさと深化を見せるようになっていったが、クラヴィーア曲はなぜそうならなかったのか。”謎めいている”とか”内在的”という言葉で片づけずに、もっとこの謎に切り込んでほしかった。おそらくそれはソナタ形式の理解の仕方と関係してくると思う。本書ではこの形式のもつ意味は扱われていないけれども、そこから謎を解く糸口が見えてきたかもしれない。 (喜多尾道冬)


著 書  へ