久元 祐子 ピアノ・リサイタル
2004 年 9 月 1 日 (水) 19:00 東京文化会館
Program note

  
2010.4.6
2008.9.1
2008.4.15
2007.7.31
2006.9.30
2006.4.22
2005.9.13
2004.9.1
2003.10.29
2003.5.31
2002.11.20
2002.5.9

J・S・バッハ :フランス組曲第5番 ト長調  BWV 816

  第 1曲 「Allemande」   第 2 曲 「Courante」  第 3 曲 「Sarabande」
  第 4 曲 「Gavotte」   第 5 曲 「Bourree」  第 6 曲 「Loure」    第 7 曲 「Gigue」

ヨハン・クリスティアン・バッハ :ピアノ・ソナタ イ長調 作品17の5

  第1楽章 Allegro   第2楽章 Presto

モーツァルト :ピアノ・ソナタ イ短調 KV310   

  第1楽章 Allegro maestoso イ短調
  第2楽章 Andante cantabile con espressione ヘ長調
  第3楽章 Presto イ短調

ショパン :3つのマズルカ   作品59     

  第1曲 イ短調  第2曲 変イ長調  第3曲 嬰ヘ短調

キュイ: マズルカ 変イ長調 作品70−1
     ワルツ ホ短調
     スケルツィーノ ヘ長調

ドビュッシー :「映像」第2集 
 
   第1曲 葉蔭をもれる鐘の音  第2曲 そして月は廃寺に落ちる
   第3曲 金色の魚


<プログラム・ノート>    久元 祐子
J・S・バッハ :フランス組曲第5番 ト長調  BWV 816

ヨハン・ゼバスティアン・バッハヨハン・セバスティアン・バッハ(1685−1750) ― 大バッハはおびただしい数の鍵盤楽器(クラヴィーア)のための曲集を残している。大バッハの時代には既にピアノの前身であるピアノフォルテは発明されており、大バッハ自身、ジルバーマンが制作したピアノフォルテを弾いたことはあったが、ピアノフォルテはまだほとんど普及しておらず、大バッハの鍵盤楽器のための作品は、チェンバロかクラヴィコードで弾かれることを想定して作曲された。
 6曲からなる「フランス組曲」は、大バッハがケーテンで過ごした1722年頃の作品と考えられている。大バッハは1720年に最初の妻バルバラを亡くしているが、翌年には21歳の歌手、アンナ・マクダレーナと結婚している。15歳の年齢の差にもかかわらず、ふたりは仲睦まじかったようで、大バッハは新しい妻のためにクラヴィーアための作品をたくさんつくっている。これらの作品の中に、後に「フランス組曲」として編まれることになる曲集の一部が含まれている。多くの研究者は、1720年から1722年に間に、それまでにつくられていた舞曲を含め、大バッハや弟子の手によって、「フランス組曲」と「イギリス組曲」が編集されたと考えている。大バッハ自身がこのように命名したわけではないが、この二つの組曲の名前は、愛称として大バッハ存命中に流布していたと考えられている。
 「フランス組曲」は6曲あり、それぞれが、いずれもアルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグを含む舞曲から構成されている。今回弾かせていただく第5番は、アルマンド、クーラント、サラバンド、ガヴォット、ブーレ、ルール、ジーグの7曲の舞曲からなる。
 アルマンドは文字どおりドイツで踊られた舞曲で、ややゆったりとした4拍子系のリズムをとる。もっとも起源は古いとされている。クーラントは、フランスとイタリアに起源を持つ活発な舞曲で、3拍子系をとる。サラバンドは、スペインから取り入れられた舞曲で、ゆったりとした3拍子系をとる。ガヴォットは2拍子を基調とするフランスの民族舞曲で、中くらいの速さ。ブーレは2拍子または4拍子系だがガヴォットよりも激しい動きを見せる。ルールもフランス舞曲で、メヌエットの代わりに用いられている。ジーグは、組曲を締めくくる明るい活発な舞曲で、イギリスが起源とされている。
 もともとバロック時代の舞曲は、舞踏の伴奏曲であったものが、純粋の器楽曲として独立したものなので、それぞれの曲の雰囲気は、舞踏を見ることが有意義だと考えられる。私は、バロック・ダンス研究家の分野で第一人者でいらっしゃる浜中康子氏と対談コンサートを行い、実際に浜中氏のステップを拝見したことがあるが、それぞれのイメージをつかむのにとても役立った。

ヨハン・クリスティアン・バッハ :ピアノ・ソナタ イ長調 作品17の5
ヨハン・クリスティアン・バッハ大バッハは、最初の妻バルバラとの間に7人の子供をもうけたが、その中で、ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(1710〜1784)とカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714〜1788)とが優れた音楽家になった。ヴィルヘルム・フリーデマンは、才能に秀でていたが、放浪癖、また酒癖があったため世に出ることはなかった。これに対し、エマヌエル・バッハは28年間、フリードリッヒ大王の宮廷につとめた後、ハンブルクに赴き、テレマンのあとを継いで教会の音楽監督となった。
 二度目の妻、アンナ・マクダレーナとの間には、13人の子供が生まれたが、一番下の息子であるヨハン・クリスティアン・バッハ(1735−1782 右の肖像画)が後世に名が残る音楽家となった。彼は15歳のときに父の大バッハが亡くなると、ベルリンの兄エマヌエル・バッハの下に預けられ、その教育を受けた。ベルリンで観たイタリア・オペラの魅力に魅せられ、20歳のときにイタリアに赴く。そしてカトリックに改宗し、ミラノ大聖堂のオルガニストを7年間つとめた。その後ボローニャのマルティーニ神父のもとで作曲を勉強し、ナポリでオペラを作曲した後、1762年、イギリスに渡り、王妃シャーロットの音楽教師になった。
 彼は、ロンドンでオペラや交響曲、室内楽などを作曲し、人気のある音楽家として活躍したが、クラヴィーアのためのソナタも多数残している。ロンドンは、ピアノフォルテがもっとも早く普及した都市で、ヨハン・クリスティアン・バッハの作品5の6曲のクラヴィーア・ソナタは、当時ロンドンで流行していたスクエア型のピアノフォルテを想定して作曲された。モーツァルトは1764年から1765年に神童としてロンドンを訪れ、バッキンガム宮殿でヨハン・クリスティアン・バッハとともに国王ジョージ3世の前で演奏しているが、モーツァルトは後に彼の作品5のうちの3曲をクラヴィーア協奏曲に編曲している。
 きょう弾かせていただく作品17のクラヴィーア・ソナタは、ヨハン・クリスティアン・バッハの代表作で、1773年か1774年にロンドンで作曲された。パリのジベール社で出版され、その後、ウィーン、ロンドン、アムステルダムでも出版された人気作品である。
 1778年夏、パリで失意のどん底にあったモーツァルトは、パリ郊外のサン・ジェルマンで13年ぶりにヨハン・クリスティアン・バッハに再会しているが、モーツァルト研究家のアインシュタインは、この再会をとても重視し、おそらくモーツァルトは、クリスティアンの作品17の4を参考にして、パリで、クラヴィーア・ソナタの名作、変ロ長調KV333を作曲したと推測した。アインシュタインは、「このヨーハン・クリスティアーンのソナタの模範はつねにモーツァルトの眼前に浮んで」おり、クリスティアンの作品5の3、作品17の4とモーツァルトのKV333のソナタの冒頭の関係は、「単にメロディーの案出の相似ではなく、精神的、音楽的態度の深い、内的な類似」があると考えた。(アインシュタイン『モーツァルト その人間と作品』白水社 174頁)
 モーツァルトが KV 333のクラヴィーア・ソナタを1778年にパリで作曲したという推測は今日では否定されているが、この年にモーツァルトと再会したヨハン・クリスティアン・バッハが、自分の作品をモーツァルトに見せたかどうかは、否定も肯定もできないと思う。
 今回は、作品17の中から第5曲イ長調のソナタを弾くが、おそらくこの曲集の中でもっとも美しい作品だろう。モーツァルトへの影響といった観点を離れて、それ自体とても魅力的な音楽に仕上がっていると思う。

―アルフレート・アインシュタインのこと―
Einsteinモーツァルト研究に関する古典的名著『モーツァルト ― その人間と作品 ― 』(浅井真男訳 白水社)で知られるアルフレート・アインシュタイン(1880−1952)は、物理学者アルバート・アインシュタインの従弟にあたる音楽学者で、ケッヘル目録第3版(1937年)を編集するとともに、1945年に本書を著した。
 アインシュタインはこのようにモーツァルト研究の権威であるが、ケッヘル第3版については、実証的な裏付けを欠いたままそれまで考えられていた作曲年代を変更したり、古典的名著とされる本書についてもその後多くの誤りが指摘されるに至っている。もちろんこのことはその後のモーツァルト研究の成果であり、そのことによってアインシュタインの業績が否定されるべきではないだろう。むしろ、大戦が終わったばかりの混乱の中で著されたこ大著を読むたびに、モーツァルトへの深い敬愛が感じられ、新たな感動を禁じ得ない。
モーツァルト :ピアノ・ソナタ イ短調 KV310

サン・ジェルマンサン・ジェルマン(左の絵は18世紀のサン・ジェルマンを描いたもの)で、旧知のヨハン・クリスティアン・バッハに会っていた1778年、モーツァルトは、パリでクラヴィーア・ソナタを作曲していた。イ短調 KV 310である。悲劇的な雰囲気と独特の緊張感をはらんだ異色のピアノ曲として19世紀以来愛されてきた。
 自筆譜は残されていて、「1778年」とだけ記されている。モーツァルトはこのソナタについては何も書き記しておらず、作曲の目的やパリで演奏されたのかどうかなど、演奏の手がかりになるようなことは何もわかっていない。このソナタは後にパリのエーナ社から出版されているが、その出版譜は間違いの多いものだった。
 このKV310のクラヴィーア・ソナタには、この頃のモーツァルトの心情がおそらくは色濃く投影されていると思う。よく知られているように、かつて神童を大歓迎したパリの人々は、成人したモーツァルトには手のひらを返したように冷たかった。演奏団体コンセール・スピリチェエルに協奏交響曲を持っていってもまったく無視され、スコアを隠されたりもしたという。ド・シャボー公爵夫人のサロンでは、寒々とした部屋でさんざん待たされ、よくやく通された部屋に置いてあったピアノフォルテはとんでもないおんぼろ楽器で、しかもモーツァルトが「フィッシャーの主題による変奏曲」を弾いていた間中、女主人も客たちもデッサンを続けていたという。さらに大きな悲劇は母の死だった。陽の射さない暗い部屋でひとり過ごすことの多かった母マリア・アンナは病気になり、寂しく息を引き取った。
 このソナタの第1楽章では、冒頭から衝撃的な緊張感があたりを包む。左手で3音または4音からなる和音が1小節に8つずつ叩かれるという分厚い伴奏の上に、不安定なリズムの、それでいて決然とした旋律が登場する。第1主題の後半はピアノとなり、ハ長調となって一瞬緊張は和らぐが、すぐにまたイ短調に戻り、フォルテで冒頭の嵐が再来し、鋭いフォルテとピアノの対比によって緊張感は高まっていく。第2主題は、第1主題とよく似た左手の伴奏の上に、16分音符のパッセージがハ長調で現れ、伴奏の形は次々に変化していく。展開部は、ディナーミクの幅が広く、フォルテシモとピアニシモの間の対比の中を揺れ動く。内声部が巧みに使われ、音楽に深みを与えている。
 緊張感を孕んだ第1楽章が何のもったいもつけられずに終わると、天国的な美しさを湛えた第2楽章が続く。何かに立ち向かうかのような力強さと動きに満ちた第1楽章と打ってかわって、アンダンテ・カンタービレ・コン・エスプレッショーネの第2楽章は、静かな緊張感の漂う不思議な雰囲気に変わる。ここうした気分は、この提示部が繰り返されるとき、より味わい深いものとなる。しかしモーツァルトが静かに「床の揚げ蓋」(メイナード・ソロモン)を開けると、「平安を乱し、騒がせる力が吹き上げてきて」、雰囲気は暗転する。「耳に刺さるような不協和音、短調と長調をシフトしながら続く、速い容赦ない転調」などが続く。「モーツァルトはこうした混沌と崩壊」を放置はせず、やがて提示部の静かな世界が回復される。
 この偉大な第2楽章に続く終楽章は、再びイ短調に戻り、テンポは第1楽章よりも上がってプレストとなる。この楽章は、やはり疾走する音楽だろう。符点音符のロンド主題がたたみかけるように全体を覆い、喘ぐように走り抜ける。この楽章の特異な雰囲気は、バスによって生まれているところが大きいと思う。ほとんどの小節で、バスの1拍目が休止符になっている。まるで後ろから何かに追いかけられ、ほとんど地面に足を踏む暇もなく、ひたすら前へ前へと進む音楽である。

ショパン :3つのマズルカ   作品59

 ショパン(ドラクロア画)ショパン(1810−49)の作品を弾くたびに、その芸術は完璧な完成度を持っていることを痛感するが、そのようなショパンの芸術性がもっともよく現れている作品群がマズルカだと思う。ショパンはその短い音楽人生のほぼ全体にわたってマズルカを書き続けた。それはこのジャンルが、失われた祖国の伝統音楽であったからとかそういう理由ではなくて、ショパンにとって心地よいものだったからだろうと思う。ショパンは、純粋に審美的見地から見て完璧な作品をつくろうとした作曲家だったが、そのようなショパンの意欲を、もっとも自然に発揮できるジャンルがマズルカだったのではないだろうか。
 マズルカは大部分が簡潔な三部形式によって書かれている。三部形式の簡潔な様式の中で、無駄のない、それでいてあらゆる技巧的な豊穣を表現しようとしたのだと思われる。
 作品59の3つのマズルカは、1845年に作曲され、同じ年に出版された。ショパンはこの年、ジョルジュ・サンドと破局を迎えているが、当然のことながら、そのような事情や感情は、これらの作品にまったく反映されていない。
 この3曲はそれぞれ作風は異なっているが、じつに研ぎ澄まされた完璧さを備えていまる。調とリズムは自在に変化し、しかも極度に洗練されている。優雅な音楽だが、表面的に美しいだけではなく、そこには不安と安らぎが同居している。すぐれて大人の音楽だと思う。
 3曲を続けて弾くと、様式は同じなのにかなり性格がちがうことに驚かされる。たとえば曲の開始だけとってみても、イ短調の第1曲では、2小節の短いため息まじりの告白のようなフレーズで、調の浮遊感によって曲が始まっている。イ短調のI度の基本形は、一瞬4小節目にちらっと出るだけで、あとは、12小節までほかの調をふらふらとさまよい、どこに連れて行かれるのかわからないような不安な感覚でさまよっていくという感じ。
 変イ長調の第2曲では、変イ長調のI度で始まり、IV度のドミナント、そしてIV度を通過して、4小節目に一区切りし、変イ長調のI度に戻ってきてくれる。はるかに安定した気分が醸し出されているし、調の安定感とともに、アレグレット(やや快速)の心地よいテンポ、そして3拍子のリズムが、一種の安らぎのある安定感を曲の冒頭からもたらしている。
 嬰ヘ短調の第3曲では、出だしからジプシーの歌声を思わせるような旋律で始まり、聴く者を異国の地に誘うかのよう。血が騒ぎ立ち、情念が燃えたぎるかのように激しく開始される。

キュイ: マズルカ 変イ長調 作品70−1  ワルツ ホ短調   スケルツィーノ ヘ長調
 セザール・A・キュイ セザール・A・キュイ(1835−1918 右の写真)は、西欧音楽に対抗してロシア音楽の個性を強調した五人組(キュイのほかに、バラキレフ、ボロディン、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフ)のひとり。音楽家であると同時に軍人としての人生を送り、さらに建築学の大家でもあった。激動の時代の中にあって長寿を全うし、ロシア革命の翌年の1918年、83才で亡くなった。 
 キュイは、歌劇や歌曲、協奏曲、室内楽のほか、代表作である「25の前奏曲」をはじめとしたピアノの作品などひじょうに数多くの作品を作曲したが、ロシア五人組の中ではもっとも知名度が低く、その作品が演奏される機会はあまり多くはない。
 キュイは、五人組のひとりとして、ロシア国民音楽を唱道したが、パリにおけるショパンのように、サロンの音楽家として作曲、演奏活動を行った。また、父親がフランス人であったことからフランス語による歌劇、歌曲なども残しており、しばしばパリを訪れて演奏を行っている。フランスとフランス音楽への憧れがあったのかもしれない。
 今回は、小品を3曲弾くが、いずれも繊細でエレガントな魅力を湛えている。
ドビュッシー :「映像」第2集
 クロード・ドビュッシー(1862−1918)の音楽を印象主義と呼ぶことについては異論もあるが、彼が生きた時代は、モネ、ピサロ、シスレーなどの印象派の画家が活躍した時期と対応しており、印象派絵画における色彩、光と、印象主義音楽における響き、音色の重視は、相互に共通するものがある。
 この曲集は、1907年に作曲された。ドビュッシーは既にフランス楽壇に揺るぎない地位を占め、これから円熟期に向かおうとする時期の作品である。彼自身この曲集について「ピアノ音楽史上しかるべき位置をしめるであろう」と書き、並々ならぬ自信を持っていたことが窺える。
 第1曲「葉蔭をもれる鐘の音」は、木々の間を響きわたる鐘の音が題材になっており、きわめて繊細で洗練された世界である。全音音階の静かな響きが透明で神秘的な雰囲気を醸し出す。
 第2曲「そして月は廃寺に落ちる」は、詩情あふれる静寂と瞑想的な美しさを持った曲である。音楽は微妙極まりない連続的な和音の変化により、柔らかい月の光と古く神秘的な夢想の世界を表すのに成功している。
 第3曲「金色の魚」のインスピレーションがどこからきたかについては、さまざまな意見があるようであるが、ドビュッシー自身が持っていた日本の蒔絵だったという説が有力であり、それによれば、一匹の金色の魚とその水に写る姿が描かれていたという。ドビュッシーはそこから霊感を得て、動きと色彩的な変化が微妙に融合した、この曲を作曲した。変化に富んだパッサージュによって、金色の鰭を動かして気まぐれに方向を変えたりする魚の動きと、鮮やかな色が光に反射してきらめく様子が目に浮かぶようだ。

―ドビュッシーの音楽評論―
ドビュッシーは理論家であり、多くの文章を残しているが、その一部は、「ドビュッシー音楽論集」(岩波文庫)で読むことが出来る。次のような一節からは、彼の音楽観の一端が読みとれる。
「フランス音楽、それは明晰さ(クラルテ)であり、優雅さ(エレガンス)であり、単純で自然な朗誦です。フランス音楽は、何よりもまず、<たのしませよう>とします。クウプラン、ラモー。!彼らこそ真のフランス人です!あのグルックのやつが、すっかりだめにしてしまいました。彼はなんてまあ退屈だったんだ!・・・魅力を感じたためしがありません、あの男には!あの男くらいがまんがならない音楽家ってのは、ほかに一人しか知りませんね。ヴァーグナーです!」

2003.10.29 へ