リスト・イタリアへの旅 〜ピアノ作品に寄せられた言葉〜 
2003 年 10 月 29 日 (水) 19:00 朝日生命ホール
Program note

  
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2003.5.31
2002.11.20
2002.5.9

 フランツ・リスト
「巡礼の年第2年〜イタリア〜」から「婚礼」

「巡礼の年第3年」から 「エステ荘の噴水」

「巡礼の年第2年〜イタリア〜」から
            「サルヴァトール・ローザのカンツォネッタ」   
            「ペトラルカのソネット 第104番」

「二つの伝説」から
            「波をわたるパオラの聖フランシス」
            「小鳥と語るアッシジの聖フランシス」

「巡礼の年第2年〜イタリア〜」から
            「ペトラルカのソネット 第123番」
            「ダンテを読んで〜ソナタ風幻想曲〜」

ピアノ:久元 祐子

<プログラム・ノート>    久元 祐子
「巡礼の年第2年〜イタリア〜」から「婚礼」

「巡礼の年第2年・イタリア」は、「婚礼」「考える人」「サルヴァトール・ローザのカンツォネッタ 」「ペトラルカのソネット第47番」「ペトラルカのソネット第104番」「ペトラルカのソネット第123番」「ダンテを読んで - ソナタ風幻想曲」の7曲からなる。いずれもイタリアの絵画や文学からインスピレーションを得ている。
ラファエロ「婚礼」 この7曲は続けて弾かれなければならないとする考え方もあり、確かにそうすると全体の構成や流れがよく見えてくるようにも思うが、私は絶対にそうしなければならないとも思わない。それぞれが独立した名曲であり、単独で弾かれるときに、それぞれの魅力が際だつようにも感じられるからだ。
 第1曲「婚礼」は、ラファエロの名画「婚礼」にインスピレーションを得て作曲された。
 調和のとれた構図の中に、5人の処女にかしづかれた清らかなマリアの姿が描かれ、高僧の手から指輪を渡されるマリアを中心に厳粛な喜びに満ちた雰囲気が伝わる。神に選ばれた結婚を祝福するかのような気品に満ちあふれている。
 リストの曲の方も美しい弱音で始まるメロディ、2つのテーマの呼応、調和、響き合い、そしてクライマックスへの豊かなドラマが見事に現れているように思える。

 

◇「巡礼の年第2年〜イタリア〜」から「婚礼」「巡礼の年 第3年」から「エステ荘の噴水」
「巡礼の年第3年」は、7曲からなり、1883年に出版されている。この曲集には地名のタイトルはつけられておらず、また、以前に作曲した曲の改作ものでもない。いずれもが1860年代から70年代に作曲されたものである。第1集、第2集、第2集の補遺とはかなり作風が変化しており、はなばなしいパッセージは比較的少なく、洗練された淡い色調となっている。また、この時期のリストの宗教的境地が窺える作品も目立つ。
 エステ荘 ― ヴィラ・デステは、ローマ教皇と各地の諸侯たちが血で血を争った16世紀半ば、当時のイタリアで権勢をふるった枢機卿イッポリト・デステによって造営された。もとはベネディクト派の修道院だった建物を改築したもの。山の斜面に広がる庭園には、さまざまに意匠を凝らした大小500もの噴水が配されている。
 リストは1877年の夏から秋にかけてエステ荘に滞在し、「エステ荘の噴水」を作曲した。最初から水が流れる様が音によって描かれている。それは繊細きわまりない音楽世界だが、ある意味でドラマティックでロマンティックなものである。牧歌風のメロディーも出てくる。ここでリストが表現したかったのは、風景それ自体ではなく、やはり一種のドラマだったのではないだろうか。風景それ自体を切り取ったと言うよりは、空間的な広がりを持った音の構築物を表現したかったのではないかと、この曲を弾いていて感じる。
 楽譜の144小節には、新約聖書「ヨハネによる福音書」第4章第14節にあるイエス・キリストの言葉が引用されている。
「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」 ― (聖書・日本聖書協会)
◇「巡礼の年第2年〜イタリア〜」から「婚礼」

サルヴァトール・ローザ「自画像」「巡礼の年第2年・イタリア」の第3曲「サルヴァトール・ローザのカンツォネッタ」は、この曲の中では唯一軽い、行進曲風の曲。サルヴァトール・ローザは、イタリア・バロック絵画で異彩を放っている画家である。
以下のカンツォネッタの歌詞が、ピアノ楽譜の中にも書き込まれており、あるときは、ソプラノのメロディラインに、またあるときは、バスのラインが、歌となる。

Vado ben spesso cangiando loco ma non so mai cangiar desio
Sempre L'istesso sara il mio fuoco
E saro sempre L'istesso anch'io saro sempre

(私はよく場所を変える。しかし私には、いつも希望がある。
私は、いつも同じ存在だ。)
(訳:ニコスさん)

ロンドンのナショナル・ギャラリーに自画像があるが(上の絵)、その雰囲気は、リスト自身に似ていると言われる。
曲はおどけた雰囲気で始まり、歌詞の内容に符合するかのように、淡々と希望を持って同じリズムで歩むような曲想になっている。三部形式からなり、イ長調のテーマの間に挿入される嬰へ短調の中間部では、叙情的な旋律が、ソプラノ、バスによって呼び交わされる。

「巡礼の年第2年〜イタリア〜」から「ペトラルカのソネット 第104番」

 「巡礼の年第2年イタリア」には、ペトラルカのソネットが3曲、第47番、第104番、第123番が収められている。 フランチェスコ・ペトラルカ( 1304-74)はルネサンスを代表するイタリアの抒情詩人。その代表作「抒情詩集」の中には、ソネットと呼ばれる14行の定型詩が収められているが、今回は、第104番、第123番を弾かせていただく。
 ニコスさんに、次のように訳していただいた。

第104番
平和を見つけられず、戦わなければならないわけでもなく
恐れながら望み 燃えるけれども凍りつき
空高飛び 地面に降り立つ
何物ももたず 全ての人を受け入れる

愛の神は、私を牢獄に入れる
そこは開くこともなく 閉じることもない
引き止めることもせず 縄をほどこうともせず
殺しもせず 足かせを外すこともない
生きることを望まず 救い出すこともない

目がないのに見つめ 舌がないのに叫ぶ
死を望みながら 救いを求める
自分を憎み 他人を愛する

悲しみを生きる糧とし 泣きながら笑う
生も死も 私にとり同じくうとましい
いとしい貴女が私をこのようにしてしまったのだ

「二つの伝説」から「波を渡るパオラの聖フランシス」
  華やかなスタートしての人生を送ったリストだったが、老境にはいると次第に宗教の世界に惹かれるようになり、1865年には僧籍に入ることになる。
 「二つの伝説」は、このような事情の中でリストがローマで作曲した作品である。「ローマで1866年。フランツ・リスト」との署名がある序文が残されており、リストは序文で、この作品を書く契機となった2冊の書物を引用している。 一冊はアッシジの聖フランシスについての伝記である「聖フランチェスの小さき花」で、もう一冊はジュゼッペ・ミシマッラが著した「パオラの聖フランチェスコの生涯」である。(我が国で出版されている楽譜にはこの序文が省略されているが、残念なことである。)
 数多くの解説書は、この二人の「聖フランシス」についてほとんど記しておらず、「ピアノ鑑賞事典」(中河原理編:東京堂出版)に至っては、「テーマとなっているのは2曲とも、13世紀の初めにイタリア各地に多くの徳を施したフランシスコ教会の設立者として名高い聖フランシスに基づく伝説である」と書いているが、2曲目の「聖フランシス」は、200年以上後の人物であり、二人はまったく別の聖職者である
 ニコスさんに、この序文を訳していただいた。


絵画に描かれたパオラの聖フランチェスコ
Panormus 提供)

 「やっとメッシーナの灯台が見えるところに着き、カトーナの浜辺に到着した時、彼は一艘のシチリアへ樽板を運ぶ小舟をみつけた。彼は二人の連れと共にピエトロ・コローゾという船長のところへ行き、彼に言った。「お願いだから兄弟よ、私たちをあなたの小舟で島まで連れていってくれませんか?」しかし船長はこのように頼む彼が聖人であることを知らず、彼に船賃を要求した。彼がそれを持っていないと答えると、船長は「お前たちをのせる船はない」と答えた。
 聖人に同行し、一緒にいたアレナの人々は、頼みが断たれると、船長に彼らのうちの一人は聖人であるのは確かであるから、この貧しい兄弟たちを船に乗せてほしいと頼んだ。すると船長は「もし彼が聖人であるのなら、海の上を歩いて奇跡を起こせ」と無礼きわまりない態度で答えた。そして彼らを残して浜辺を出発してしまったのである。
 愚かな船員たちの不作法な態度に聖人は狼狽することもなく、いつも助けて下さる聖霊に励まさられて、少し連れから離れると、祈りながらこの苦境からの神の助けを求めた。それから連れのところに戻ってくると彼らに言った。
 「息子たちよ、元気を出しなさい。神の恵みによって私たちは海を渡るための一番よい船を得ることが出来ました」
 しかし、純粋で単純な修道士ジョヴァンニは他の船が見当たらずにこう言った。
 「われらの父よ。船は行ってしまったのに何で渡ると言うのですか?」
 すると彼は答えた。
 「主はほかの良い、もっと安全な船をお与えになりました。それは私のマントです」
 そして海の上にマントを広げた。修道士ジョヴァンニはほほえみ(なぜなら思慮深い神父パウロがこの聖人の予告する奇跡を疑っていなかったからである)いつもの無邪気さで言った。
「できれば私のマントを使って渡りましょう。私のは新しく、あなたのよりは継ぎはぎもありませんのでもっとみんなを支えることができるでしょう」
 ついに我らの聖人がマントを広げ、神の御名において祝福すると、そのマントの一部が持ち上がって小さな帆のようになり、彼の杖がマストのようにその帆を支えた。彼は、彼の連れとともにこの奇跡の小舟に乗り出発した。
 アレナの人々は唖然としてこのマントの船が海を急速に進むのを浜辺から見つめ、泣き叫び、まるで船乗りたちが船の上でするのと同じように手をたたいた。かの忘恩な船長は、彼の頼みを拒否したことへの赦しを求め、自分の船に乗らないかと誘った。しかし神は、彼の聖なる御名の栄光の為に我々の聖人に、大地や火を従わせただけでなく、海まで服従させた。また船長の誘いを無視させ、小舟よりも早く港に着くようにさせた」

 
「二つの伝説」から「小鳥と語るアッシジの聖フランシス」
 小鳥と語るアッシジの聖フランシス聖フランシス修道会をつくった聖フランシスは、1181年、イタリアのアッシジで富裕な商人の家に生まれた。
恵まれた青春を送ったが、二十代半ばにして、持てるものすべてを投げ捨て、信仰の道に入る。ボロをまとい、町から村へと托鉢に歩き、病に苦しむ者を癒し、十字架にかけられたキリストと同じ聖痕を身に受けたりしたとも伝えられる。
 この時代、教会の腐敗が目に余るものとなり、さまざまな異端の集団が都市や教会を襲うなど教会を取り巻く混乱状態が高まっていた。ローマ法王側も改革の必要を認めざるを得なかったのだろう。彼の革新的な行いは、やがてローマ法王から修道会として認められるところとなった。聖フランシスの革新運動はまたたく間にイタリア中に広がり、彼がその波乱に満ちた生涯を終える頃には、聖フランシスの運動は、一大勢力に成長していた。
 聖フランシスの死後フランシス修道会の会長となった聖ボナベントゥラは、聖フランシスについて多くの事績を書き残した。これがリストが引用している「聖フランチェスの小さき花」で、第16章に小鳥への説法の伝説が記されている。
 ニコスさんに、この序文を訳していただいた。

「さらに先へと熱心に過ぎながら、ふと目を上げると、道端のたくさんの木に、かなりの数の小鳥がとまっているのを見た。驚いた聖フランチェスコは連れに言った。
 「私の姉妹の小鳥たちのところへ説教をしに行ってきますので、ここで待っていて下さい」
 そして野原に入り、地面にいた小鳥たちに説教を始めた。すると突然、木の上にいた小鳥やありとあらゆる小鳥たちがやってきて、聖フランチェスコの説教が終わり、彼らに祝福が与えられるまで飛び立つこともなく動かずにいた。後に修道士マッセオが修道士ヤコポ・ダ・マッサに語ったところによれば、聖フランチェスコのマントが小鳥たちに触れても一羽も飛び立たなかったそうである。
 聖フランチェスコの説教は次のようであった。
 「私の姉妹の小鳥たちよ。あなたたちは創造主である神に感謝し、いつもどんな場所でも神を賛美しなければなりません。神はどんな場所へも飛んでゆける自由や、二重、三重もの衣類を与えられ、世界の中であなたたちの子孫が欠けることのないように、ノアの箱舟に一つがいの小鳥を乗せられた。また、、あなたたちが飛ぶことができるように、空気をお造りになったことにも感謝しなさい。さらに、種を捲かず、刈り取りもしないのに食べ物を与えてくださり、飲むためには川や泉を、宿るために山や谷を、巣を作るために高い木を与えて下さった。紡ぐことも縫うこともできないのに、神はあなたたちや、あなたたちの息子たちに衣類をお与えになった。あなたたちの創造主がたくさんの恵みを与えて下さるのは、あなたたちを愛していらっしゃるからです。ですから私の姉妹たちよ、忘恩の罪には気をつけなさい。そしていつも努めて神を賛美しなさい」
 このように聖フランチェスコは説教をすると、小鳥たちは口を開け、首をのばし、翼を広げ、恭しく頭を垂れ、態度と歌で大きな喜びを聖人に表した。聖フランチェスコも彼らとともに喜び、たくさんの数の小鳥たちの親密な態度に驚かれた。こうして聖人は、小鳥たちにも創造主を賛美する心を目覚めさせたのである。
 説教が終わると、聖フランチェスコは小鳥たちに十字を切り、飛び立つ許可を与えた。すると小鳥たちは皆、見事にさえずりながら飛び立った。そして聖人が十字架の印をすると、四方へ飛び立った。東や西へ、南や北へ、めいめいに素晴らしい歌をさえずりながら群れは飛び去っていった。
 このことが意味するのは、キリストの十字架の騎手である聖フランチェスコが小鳥たちに説教し十字を切ると四方へ別れて飛び去ったように、キリストの十字架の説教も聖フランチェスコによって新しくされ、彼とその修道士たちによって世界中に広げられたということである。修道士たちも小鳥たちと同じように、この世界に自分自身のものは何も持たず、彼らの生活を神の神意に委ねているのである。」
「巡礼の年第2年〜イタリア〜」から「ペトラルカのソネット 第123番」
  第123番を、ニコスさんに、次のように訳していただいた。

123番
私は地上で見た 天使のような姿をし 
この世のものとは思えない 輝くような美しさを
あの人のことを思い出すと 私の心は高鳴り そして痛む

私は見た あの美しい二つの瞳が涙を流すのを
何度となく太陽もねたましく思ったその瞳が

私は聞いた 山を動かし川をせきとめてしまう言葉を
あの人がため息まじりに語るのを

愛、理性、勇気、同情、そして苦痛は
かつて聞いたことのないほど甘く快い響きを
嘆き悲しみながら奏でる

天はその調べに夢中で 枝の葉が動くのすら見えなかった
たくさんの甘美さが 大気と風いっぱいに満ちあふれていた
「巡礼の年第2年〜イタリア〜」から「ダンテを読んで〜ソナタ風幻想曲〜」
 ほかの6曲に比べ、規模が相当大きい名曲である。このタイトルは、文豪ヴィクトル・ユゴーの詩集「内なる声(1836年)」の中の詩からとられたものだが、曲全体のイメージは、ダンテの「神曲」からインスピレーションを得ている。数次の改訂を経て、1849年に完成された。
 ダンテ・アリギエーリ(1265−1321)は、イタリア・ルネサンスの先駆者となった詩人。フィレンツェの貴族の家に生まれ、政治にも深い関わりを持ったが、反対派によってフィレンツェを永久追放され、以後各地を放浪しながら執筆活動を行い、この間に「神曲」を執筆した。
 「神曲」は、「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」の三部からなる一大叙事詩で、ダンテ自身が古代ローマの詩人ヴェルギリウスに導かれて地獄と煉獄を、そしてベアトリーチェに導かれて天国をめぐり、歴史上の人物の死後の姿に出会うという物語である。
第3歌で、地獄の門には次のように記されている。

「われをくぐりて 汝らは入る なげきの町に
 われをくぐりて 汝らは入る 永劫の苦患に
 われをくぐりて汝らは入る ほろびの民に
正義高きにいますわが創造主を動かす
 われを造りしは聖なる力
 いと高き知恵 また第一の愛
永遠のほか われよりさきに
 造られしもの無し われは永遠と共に立つ
 一切の望みは捨てよ 汝ら われをくぐる者」(寿岳文章訳:集英社文庫)

 リストの作品では、オクターヴで鳴らされる序奏が、地獄への門を開く。やがて眼前に繰り広げられるのは、地獄の世界。うめくようなテーマから苦悩に満ちた混沌が繰り広げられる。やがて天上から救済を思わせる調べが降りて来るが、葛藤と混沌を思わせる音楽の交錯を経て、最後は輝かしいコードによって曲は締めくくられる

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