Mozart : Piano Concerto KV37, 271
2003/5/31 LA FORTE 定価 2000円 ピアノ:久元 祐子 ハーツ室内合奏団 指揮:大澤 健一 Producer : Kenichi Osawa Balance Engineer and Disc Editor : Hironori Kosaka Cover Art : Mitsuhiro Amada Piano : BECHSTEIN 2002年11月20日 三鷹市芸術文化センター 風のホール でのライブ録音 ・モーツァルト:ピアノ協奏曲 第1番 ヘ長調 KV37 ・モーツァルト:ピアノ協奏曲 第9番 変ホ長調 KV271 ・モーツァルト:交響曲 第40番 ト短調 KV550 <プログラム・ノート> 久元 祐子 ◇モーツァルトのピアノ協奏曲 モーツァルトの天才がもっとも発揮されたジャンルは、オペラとピアノ協奏曲だと思う。 同じ古典派の巨匠、ハイドンと比較すれば、シンフォニーやカルテットでは人によって意見が分かれるだろうが、オペラとピアノ協奏曲の分野におけるモーツァルトの優位は動かしがたい。 ピアノ協奏曲の分野において、モーツァルトは音楽形式と芸術的内容の両面で画期的な足跡を残した。こんにち広く演奏されているこの音楽様式は、実質的にはモーツァルトによって創造されたと言っても過言ではない。 鍵盤楽器と管弦楽が合奏するクラヴィーア協奏曲という音楽様式は、バロック時代から存在した。大バッハはいくつかのチェンバロ協奏曲を書いているし、チェンバロが独奏楽器として活躍するブランデンブルク協奏曲第5番は、実質的には一種のチェンバロ協奏曲とも言える。大バッハの息子であるカール・フィリップ・エマヌエル・バッハとヨハン・クリスティアン・バッハは、それぞれの美学と流儀にもとづいてチェンバロ協奏曲を残した。 モーツァルトは、それまでから存在していたこのジャンルに、大きな変革をもたらしたが、その重要なポイントの一つは、クラヴィーアで弾かれるソロの重みが圧倒的に増したという点である。 モーツァルトは、ソロをオーケストラと対峙させ、ときには鋭く対立させる手法を取り入れた。ソロは今やオーケストラと対等、ときにはそれ以上の存在感を示して雄弁に語り、音楽の流れをリードし、劇的な表現力を持って聴き手に迫るようになった。このような要素は、モーツァルトがクラヴィーア奏者として際だった才能を持っていたからであり、演奏家としても作曲家としてもクラヴィーアの可能性を知り尽くしていたからはじめて可能になったと考えられる。 またモーツァルトは、クラヴィーア協奏曲の中にオペラの要素を持ち込んだ。ソリストは、まるでプリマ・ドンナのような役割を与えられ、ステージの上で聴き手の注目を一身に浴びるようになった。ソリストが奏でる音楽はその存在感を示すとともに、協奏曲という劇全体の中に位置づけられている。こうしてクラヴィーアのソロは圧倒的な存在感を示しながら、オーケストラとの間で対立し、溶けあい、補い合い、対話を交わす。 しかもモーツァルトは、オーケストレーションの中でそれぞれの楽器に独自の役割を与えた。フルートが、クラリネットが、オーボエが、クラヴィーアとの間でさまざまな会話をかわす。まるでオペラの中の二重唱や三重唱のように。モーツァルトのミサ、モテットなどの宗教曲では、ソリストの活躍が重視されており、オペラの応用と考えられるが、クラヴィーア協奏曲においてもオペラの手法が持ち込まれているのである。 このようにしてモーツァルトは、クラヴィーア協奏曲の中に、多彩でドラマチックな要素をふんだんに持ち込んだ。しかしモーツァルトは力で聴き手をねじ伏せることはしないし、過度な感情表現を濫用したりすることもない。そこに表現されている劇的な世界は、喜びとか悲しみとか興奮とか言った単色の感情ではなく、言語化が不可能な、複雑で不思議な情感を湛えている。それは音楽芸術が到達したもっとも優れたものであるといって過言ではないだろう。 モーツァルトは、クラヴィーア協奏曲の分野において、器楽音楽における自らの音楽的理想を達成したように思える。それは、クラヴィーアに関する演奏家、作曲家としての天才的才能を、オーケストラとの結合によってより大きく、豊かに開花させることができたからである。そこにはオペラ作曲家としての才能のみならず、シンフォニー作曲家としての手腕も十二分に生かされており、ここに、モーツァルトのあらゆる才能が結集して見事な芸術作品に結晶したのである。 モーツァルトが使った楽器は、このサイトのあちこちでも触れたように、初期はチェンバロで、やがてピアノフォルテになり、今日の演奏慣行では、ピアノ協奏曲として演奏される。 ◇モーツァルト:ピアノ協奏曲 第1番 ヘ長調 KV37 もちろんモーツァルトのような天才と言えども、真に優れた作品群が生まれるためには、一定の学習と試行錯誤が必要だった。 それはほかの作曲家の編曲から始まった。1763年から1766年にかけての、足かけ4年にわたる神童時代の大旅行の中で、モーツァルトはたくさんの優れた音楽家たちと出会い、影響を受けるが、ザルツブルクに戻ってからは、これらの作品の研究と分析に没頭した。 少年作曲家が気に入ったのは、パリで知るところとなったヘルマン・フリードリヒ・ラウパッハ、ヨハン・ショーベルト、ヨハン・ゴットフリート・エッカルト、 ロレンツィ・ホーナウアーの作品、そしてロンドンで知り合ったヨハン・クリスティアン・バッハの作品だったようだ。 モーツァルトは、ザルツブルクに帰着した翌年の1767年春には、4曲のクラヴィーア・コンチェルト ― へ長調 KV37、変ロ長調 KV39、ニ長調 KV40、ト長調 KV41 ― を作曲するが、これらは、大旅行で知ったほかの作曲家による作品をを編曲したものである。ザルツブルク、そしてこの作品を披露することを予定していたウィーンでは、いまだピアノフォルテは普及しておらず、楽器としてはチェンバロが想定されていた。 今回弾かせていただく、第1番ヘ長調 KV37は、第1楽章がヘルマン・フリードリヒ・ラウパッハ(H. F. Raupach, 1728 - 78)のソナタ作品1の5の第1楽章、第3楽章が ロレンツィ・ホナウアー(L. Honauer, 1735 -?)のソナタ作品2の3の第1楽章の編曲である。第2楽章の原曲はわかっていない。 ラウパッハは北ドイツ生まれのドイツ人作曲家で、ロシアのサンクト・ペテルブルクで活躍し、この地で没している。ラウパッハのクラヴィーア・ソナタは、1765年から67年にかけてパリで出版されており、モーツァルト一家がパリを訪れた時期に当たっている。パリで書かれたレオポルトの手紙の中にはラウパッハの名前はなく、モーツァルトとは面識はなかったと考えられる。 ホナウアー は、ストラスブール出身で、遅くとも1761年にはパリに出てきて演奏活動を始めている。レオポルトの手紙にその名前が出てくるので、モーツァルト一家とは面識があったと考えられる。当時の評価は、エッカルトやショーベルト、そしてラウパッハよりも一段低かったようで、チャールズ・バーニーの「音楽史」にも名前は出てこない。 モーツァルトのこの協奏曲の楽章構成は次のとおり。 3つの楽章にカデンツァを弾く場所がある。私は、リリー・クラウスの残したカデンツァを基本としつつ、これらをよりシンプルにしたものを用意したいと思っている。 第1楽章 Allegro ヘ長調 4/4 第2楽章 Andante ハ長調 3/4 第3楽章 Allegro ヘ長調 3/4 ◇モーツァルト:ピアノ協奏曲 第9番 変ホ長調 KV271 第1楽章 Allegro 変ホ長調 4/4 第2楽章 Andantino ハ短調 3/4 第3楽章 Presto 変ホ長調 2/2 他人の編曲ではないモーツァルトのオリジナルのクラヴィーア協奏曲は、1773年に作曲されたニ長調 KV175 が最初で、ザルツブルク時代には、全部で6曲が作曲されている。その中で1777年初め、20歳のときに生み出された変ホ長調 KV271は、一頭地を抜いており、屹立しているとさえ言える名曲である。 冒頭では、オーケストラがトゥッティでテーマの動機の前半を奏すると、ソロが後半を弾く。このときオーケストラは沈黙し、否が応でも、ソロの突然の登場は、聴き手の耳をソロに向けさせる。その対比は強烈である。 そしてオーケストラが提示部を奏し、ソロが入るときには、ふつうのやり方ではソロは提示部のテーマをなぞることになるのだが、この曲ではオーケストラがまだ提示部を奏している間にソロは意表を突くようにトリルで侵入し、その存在感をアピールする。そしてその後の流れの中では、ソロはオーケストラには出てこないモティーフを弾いたりして緊張感を孕みながら、またときには呼応しながら、変化に富んだ、生き生きとした音楽がつくられていく。 ハ短調の第2楽章は、より際だった個性を示している。ヴァイオリンが低音で悲しみを湛えたテーマを奏でるが、ピアノ・ソロはやはりこのテーマをなぞるのではなく、オーケストラが冒頭のテーマを奏でる中を、異なる旋律を歌う。対立の構図なのだが、このテーマの原型は実はオーケストラのテーマの中にある。この辺の対立と統一の調和は実に見事だ。 第3楽章は自在な運動性をはらんだロンドだが、かなり大規模につくられており、2回のカデンツァをはさんで、中間部にはメヌエットが挿入されている。ウィーン時代の名作、同じ変ホ長調KV482を先取りしているが、KV271の方がよりエネルギーと動きにあふれた音楽となっている。 このようにKV271は、いろいろな意味で画期的な作品であり、青春時代を代表する名作といってもよいが、スコアから読みとれることがら以外には分からないことが多い。この作品には、《ジュノム》という愛称がついていて、たいていの解説には、「当時ザルツブルクを訪れたフランス人ピアニスト、ジュノム嬢のために作曲された」といった説明が書かれている。 しかし、モーツァルトやレオポルトの手紙にはこのような令嬢の名前は出てこないし、「ジュノム嬢」やそのザルツブルク訪問についての記録もないようだ。吉成順氏は、「ジュノム嬢」という令嬢の名前が初めて出てくるのは、アルフレート・アインシュタインが編纂したケッヘルの第3版であることを指摘し、後世の創造物であった可能性を示唆しているがているが(青土社「ユリイカ」1991年8月臨時増刊号)、このような令嬢はそもそも存在しなかったという見方にはじゅうぶんな説得力があるように思える。いずれにしても、フランス人の可愛い令嬢を思い浮かべてこの曲を弾いても、イメージを膨らませる上で何の役にも立たないことは確かである。 また、KV271で想定されていた楽器がチェンバロだったのかピアノフォルテだったのかも定かではない。ザルツブルクにはじめてピアノフォルテが入ったのは、1775年のことと考えられており、この曲が作曲された時点ではすでにピアノフォルテはあったのだが、この作品はこの小型のピアノフォルテで弾かれるにはあまりにもスケールが大きく、ディナーミクを含めダイナミックな音楽に仕上がっており、チェンバロやこの小型のピアノフォルテを想定して作曲されたかどうかはわからない。モーツァルトがマンハイム・パリ旅行に出発するまでにザルツブルクで作曲したクラヴィーア曲は主としてチェンバロが想定されていたことが窺えるが、この曲だけが異質な様相を示している。いずれにしてもいろいろな意味で謎の多い名曲である。 カデンツァについて一言。モーツァルトのピアノ協奏曲にはモーツァルト自身のカデンツァが残されていない曲も多いが、この曲にはモーツァルトの複数のカデンツァ、アインガングが残されており、私も当日モーツァルトによるカデンツァ、アインガングを弾かせていただくことにしている。 久元 追記:上記吉成論文を引用させていただいた経緯について、若干記したいと思います。 私は、以前からこのKV271のコンチェルトについて、どの文献を見ても「この曲は、ザルツブルクを訪れたフランス人の女流ピアニスト、ジュノム嬢のために作曲された」と、判で押したように書かれていることに疑問を感じていました。これら異口同音の記述には、出典も何も明らかにされてはなかったからです。 漠然とそのような疑問を感じながら、このコンチェルト弾いていたのですが、、たまたま、いつも訪問しているモーツァルト・サイト、モーツァルト・コン・グラツィア (森下未知世氏主宰)で、先に引用させていただいた吉成論文の存在を知ることができました。 そしてこの論文を是非とも手に入れたく思い、ずいぶん図書館など探したのですが、見つからず、結局森下氏に相談しましたところ、快くその写しを送ってくださったのです。 森下氏は、以前から「ジュノム嬢」の実在について疑問に思っておられたそうですが、モーツァルト研究オンライン を主宰されている野口秀夫氏にその旨を伝えられたところ、野口氏から吉成論文の写しを送っていただいたそうです。 私が上記吉成論文を読むことができたのは、以上のような経緯なのですが、この論文には、その後、モーツァルト・コン・グラツィア のKV271のページからリンクが張られており、全文を読むことができるようになっています。その後、2004年3月14日付けのニューヨークタイムズに、音楽学者のマイケル・ローレンツ博士による探索の結果、その謎の女性が、モーツァルトの親友の一人で有名な舞踏家のジャン・ジョルジュ・ノヴェールの娘、ヴィクトワール・ジュナミーだったといいう記事が掲載されました。このことを教えていただいたのも吉成順氏でした。今後、吉成氏を中心に、ジュノーム嬢の実像が明らかにされていくことを期待したいと思います。 いずれにしましても、巷の刊行物を見ますと、この「ジュノム嬢」のような根拠の曖昧な引用、孫引きがあふれています。そのような中にあって、根拠が希薄な「通説」に疑問を持ち、モーツァルトに関する事実を探求されようとされたのが、森下、野口両氏でした。 日本を代表するふたつのモーツァルト・サイトが、そのような主宰者の良心と知性に支えられてはじめて、あのように素晴らしいものになっていることを改めて思い知らされました。 また、お会いしたことはありませんが、論文の執筆者、吉成順氏にも敬意を表したいと思います。
モーツァルトの天才がもっとも発揮されたジャンルは、オペラとピアノ協奏曲だと思う。 同じ古典派の巨匠、ハイドンと比較すれば、シンフォニーやカルテットでは人によって意見が分かれるだろうが、オペラとピアノ協奏曲の分野におけるモーツァルトの優位は動かしがたい。 ピアノ協奏曲の分野において、モーツァルトは音楽形式と芸術的内容の両面で画期的な足跡を残した。こんにち広く演奏されているこの音楽様式は、実質的にはモーツァルトによって創造されたと言っても過言ではない。 鍵盤楽器と管弦楽が合奏するクラヴィーア協奏曲という音楽様式は、バロック時代から存在した。大バッハはいくつかのチェンバロ協奏曲を書いているし、チェンバロが独奏楽器として活躍するブランデンブルク協奏曲第5番は、実質的には一種のチェンバロ協奏曲とも言える。大バッハの息子であるカール・フィリップ・エマヌエル・バッハとヨハン・クリスティアン・バッハは、それぞれの美学と流儀にもとづいてチェンバロ協奏曲を残した。 モーツァルトは、それまでから存在していたこのジャンルに、大きな変革をもたらしたが、その重要なポイントの一つは、クラヴィーアで弾かれるソロの重みが圧倒的に増したという点である。 モーツァルトは、ソロをオーケストラと対峙させ、ときには鋭く対立させる手法を取り入れた。ソロは今やオーケストラと対等、ときにはそれ以上の存在感を示して雄弁に語り、音楽の流れをリードし、劇的な表現力を持って聴き手に迫るようになった。このような要素は、モーツァルトがクラヴィーア奏者として際だった才能を持っていたからであり、演奏家としても作曲家としてもクラヴィーアの可能性を知り尽くしていたからはじめて可能になったと考えられる。 またモーツァルトは、クラヴィーア協奏曲の中にオペラの要素を持ち込んだ。ソリストは、まるでプリマ・ドンナのような役割を与えられ、ステージの上で聴き手の注目を一身に浴びるようになった。ソリストが奏でる音楽はその存在感を示すとともに、協奏曲という劇全体の中に位置づけられている。こうしてクラヴィーアのソロは圧倒的な存在感を示しながら、オーケストラとの間で対立し、溶けあい、補い合い、対話を交わす。 しかもモーツァルトは、オーケストレーションの中でそれぞれの楽器に独自の役割を与えた。フルートが、クラリネットが、オーボエが、クラヴィーアとの間でさまざまな会話をかわす。まるでオペラの中の二重唱や三重唱のように。モーツァルトのミサ、モテットなどの宗教曲では、ソリストの活躍が重視されており、オペラの応用と考えられるが、クラヴィーア協奏曲においてもオペラの手法が持ち込まれているのである。 このようにしてモーツァルトは、クラヴィーア協奏曲の中に、多彩でドラマチックな要素をふんだんに持ち込んだ。しかしモーツァルトは力で聴き手をねじ伏せることはしないし、過度な感情表現を濫用したりすることもない。そこに表現されている劇的な世界は、喜びとか悲しみとか興奮とか言った単色の感情ではなく、言語化が不可能な、複雑で不思議な情感を湛えている。それは音楽芸術が到達したもっとも優れたものであるといって過言ではないだろう。 モーツァルトは、クラヴィーア協奏曲の分野において、器楽音楽における自らの音楽的理想を達成したように思える。それは、クラヴィーアに関する演奏家、作曲家としての天才的才能を、オーケストラとの結合によってより大きく、豊かに開花させることができたからである。そこにはオペラ作曲家としての才能のみならず、シンフォニー作曲家としての手腕も十二分に生かされており、ここに、モーツァルトのあらゆる才能が結集して見事な芸術作品に結晶したのである。 モーツァルトが使った楽器は、このサイトのあちこちでも触れたように、初期はチェンバロで、やがてピアノフォルテになり、今日の演奏慣行では、ピアノ協奏曲として演奏される。
もちろんモーツァルトのような天才と言えども、真に優れた作品群が生まれるためには、一定の学習と試行錯誤が必要だった。 それはほかの作曲家の編曲から始まった。1763年から1766年にかけての、足かけ4年にわたる神童時代の大旅行の中で、モーツァルトはたくさんの優れた音楽家たちと出会い、影響を受けるが、ザルツブルクに戻ってからは、これらの作品の研究と分析に没頭した。 少年作曲家が気に入ったのは、パリで知るところとなったヘルマン・フリードリヒ・ラウパッハ、ヨハン・ショーベルト、ヨハン・ゴットフリート・エッカルト、 ロレンツィ・ホーナウアーの作品、そしてロンドンで知り合ったヨハン・クリスティアン・バッハの作品だったようだ。 モーツァルトは、ザルツブルクに帰着した翌年の1767年春には、4曲のクラヴィーア・コンチェルト ― へ長調 KV37、変ロ長調 KV39、ニ長調 KV40、ト長調 KV41 ― を作曲するが、これらは、大旅行で知ったほかの作曲家による作品をを編曲したものである。ザルツブルク、そしてこの作品を披露することを予定していたウィーンでは、いまだピアノフォルテは普及しておらず、楽器としてはチェンバロが想定されていた。 今回弾かせていただく、第1番ヘ長調 KV37は、第1楽章がヘルマン・フリードリヒ・ラウパッハ(H. F. Raupach, 1728 - 78)のソナタ作品1の5の第1楽章、第3楽章が ロレンツィ・ホナウアー(L. Honauer, 1735 -?)のソナタ作品2の3の第1楽章の編曲である。第2楽章の原曲はわかっていない。 ラウパッハは北ドイツ生まれのドイツ人作曲家で、ロシアのサンクト・ペテルブルクで活躍し、この地で没している。ラウパッハのクラヴィーア・ソナタは、1765年から67年にかけてパリで出版されており、モーツァルト一家がパリを訪れた時期に当たっている。パリで書かれたレオポルトの手紙の中にはラウパッハの名前はなく、モーツァルトとは面識はなかったと考えられる。 ホナウアー は、ストラスブール出身で、遅くとも1761年にはパリに出てきて演奏活動を始めている。レオポルトの手紙にその名前が出てくるので、モーツァルト一家とは面識があったと考えられる。当時の評価は、エッカルトやショーベルト、そしてラウパッハよりも一段低かったようで、チャールズ・バーニーの「音楽史」にも名前は出てこない。 モーツァルトのこの協奏曲の楽章構成は次のとおり。 3つの楽章にカデンツァを弾く場所がある。私は、リリー・クラウスの残したカデンツァを基本としつつ、これらをよりシンプルにしたものを用意したいと思っている。 第1楽章 Allegro ヘ長調 4/4 第2楽章 Andante ハ長調 3/4 第3楽章 Allegro ヘ長調 3/4
第1楽章 Allegro 変ホ長調 4/4 第2楽章 Andantino ハ短調 3/4 第3楽章 Presto 変ホ長調 2/2 他人の編曲ではないモーツァルトのオリジナルのクラヴィーア協奏曲は、1773年に作曲されたニ長調 KV175 が最初で、ザルツブルク時代には、全部で6曲が作曲されている。その中で1777年初め、20歳のときに生み出された変ホ長調 KV271は、一頭地を抜いており、屹立しているとさえ言える名曲である。 冒頭では、オーケストラがトゥッティでテーマの動機の前半を奏すると、ソロが後半を弾く。このときオーケストラは沈黙し、否が応でも、ソロの突然の登場は、聴き手の耳をソロに向けさせる。その対比は強烈である。 そしてオーケストラが提示部を奏し、ソロが入るときには、ふつうのやり方ではソロは提示部のテーマをなぞることになるのだが、この曲ではオーケストラがまだ提示部を奏している間にソロは意表を突くようにトリルで侵入し、その存在感をアピールする。そしてその後の流れの中では、ソロはオーケストラには出てこないモティーフを弾いたりして緊張感を孕みながら、またときには呼応しながら、変化に富んだ、生き生きとした音楽がつくられていく。 ハ短調の第2楽章は、より際だった個性を示している。ヴァイオリンが低音で悲しみを湛えたテーマを奏でるが、ピアノ・ソロはやはりこのテーマをなぞるのではなく、オーケストラが冒頭のテーマを奏でる中を、異なる旋律を歌う。対立の構図なのだが、このテーマの原型は実はオーケストラのテーマの中にある。この辺の対立と統一の調和は実に見事だ。 第3楽章は自在な運動性をはらんだロンドだが、かなり大規模につくられており、2回のカデンツァをはさんで、中間部にはメヌエットが挿入されている。ウィーン時代の名作、同じ変ホ長調KV482を先取りしているが、KV271の方がよりエネルギーと動きにあふれた音楽となっている。 このようにKV271は、いろいろな意味で画期的な作品であり、青春時代を代表する名作といってもよいが、スコアから読みとれることがら以外には分からないことが多い。この作品には、《ジュノム》という愛称がついていて、たいていの解説には、「当時ザルツブルクを訪れたフランス人ピアニスト、ジュノム嬢のために作曲された」といった説明が書かれている。 しかし、モーツァルトやレオポルトの手紙にはこのような令嬢の名前は出てこないし、「ジュノム嬢」やそのザルツブルク訪問についての記録もないようだ。吉成順氏は、「ジュノム嬢」という令嬢の名前が初めて出てくるのは、アルフレート・アインシュタインが編纂したケッヘルの第3版であることを指摘し、後世の創造物であった可能性を示唆しているがているが(青土社「ユリイカ」1991年8月臨時増刊号)、このような令嬢はそもそも存在しなかったという見方にはじゅうぶんな説得力があるように思える。いずれにしても、フランス人の可愛い令嬢を思い浮かべてこの曲を弾いても、イメージを膨らませる上で何の役にも立たないことは確かである。 また、KV271で想定されていた楽器がチェンバロだったのかピアノフォルテだったのかも定かではない。ザルツブルクにはじめてピアノフォルテが入ったのは、1775年のことと考えられており、この曲が作曲された時点ではすでにピアノフォルテはあったのだが、この作品はこの小型のピアノフォルテで弾かれるにはあまりにもスケールが大きく、ディナーミクを含めダイナミックな音楽に仕上がっており、チェンバロやこの小型のピアノフォルテを想定して作曲されたかどうかはわからない。モーツァルトがマンハイム・パリ旅行に出発するまでにザルツブルクで作曲したクラヴィーア曲は主としてチェンバロが想定されていたことが窺えるが、この曲だけが異質な様相を示している。いずれにしてもいろいろな意味で謎の多い名曲である。 カデンツァについて一言。モーツァルトのピアノ協奏曲にはモーツァルト自身のカデンツァが残されていない曲も多いが、この曲にはモーツァルトの複数のカデンツァ、アインガングが残されており、私も当日モーツァルトによるカデンツァ、アインガングを弾かせていただくことにしている。
久元 追記:上記吉成論文を引用させていただいた経緯について、若干記したいと思います。 私は、以前からこのKV271のコンチェルトについて、どの文献を見ても「この曲は、ザルツブルクを訪れたフランス人の女流ピアニスト、ジュノム嬢のために作曲された」と、判で押したように書かれていることに疑問を感じていました。これら異口同音の記述には、出典も何も明らかにされてはなかったからです。 漠然とそのような疑問を感じながら、このコンチェルト弾いていたのですが、、たまたま、いつも訪問しているモーツァルト・サイト、モーツァルト・コン・グラツィア (森下未知世氏主宰)で、先に引用させていただいた吉成論文の存在を知ることができました。 そしてこの論文を是非とも手に入れたく思い、ずいぶん図書館など探したのですが、見つからず、結局森下氏に相談しましたところ、快くその写しを送ってくださったのです。 森下氏は、以前から「ジュノム嬢」の実在について疑問に思っておられたそうですが、モーツァルト研究オンライン を主宰されている野口秀夫氏にその旨を伝えられたところ、野口氏から吉成論文の写しを送っていただいたそうです。 私が上記吉成論文を読むことができたのは、以上のような経緯なのですが、この論文には、その後、モーツァルト・コン・グラツィア のKV271のページからリンクが張られており、全文を読むことができるようになっています。その後、2004年3月14日付けのニューヨークタイムズに、音楽学者のマイケル・ローレンツ博士による探索の結果、その謎の女性が、モーツァルトの親友の一人で有名な舞踏家のジャン・ジョルジュ・ノヴェールの娘、ヴィクトワール・ジュナミーだったといいう記事が掲載されました。このことを教えていただいたのも吉成順氏でした。今後、吉成氏を中心に、ジュノーム嬢の実像が明らかにされていくことを期待したいと思います。 いずれにしましても、巷の刊行物を見ますと、この「ジュノム嬢」のような根拠の曖昧な引用、孫引きがあふれています。そのような中にあって、根拠が希薄な「通説」に疑問を持ち、モーツァルトに関する事実を探求されようとされたのが、森下、野口両氏でした。 日本を代表するふたつのモーツァルト・サイトが、そのような主宰者の良心と知性に支えられてはじめて、あのように素晴らしいものになっていることを改めて思い知らされました。 また、お会いしたことはありませんが、論文の執筆者、吉成順氏にも敬意を表したいと思います。
知的で音楽に対する限りない憧憬の気持ちを反映」(クラシック・ニュース) 2003/5/25 ライヴノーツ WWCC7447 定価 1800円 録音2003年4月1日〜2日 東大和市ハミングホール Piano Tuner : Atatsui Abe piano : Bechstein C - 232 Special Thanks : Hiroyuki Koyama ・リスト :「巡礼の年 第1年<スイス>」 から「ノスタルジア」 ・シューベルト :クッペルヴィーザー・ワルツ (R・シュトラウス編曲) ・シューベルト :ワルツ 作品9の2 作品9の14 ・シューマン :「愛しい五月、お前はまたやってきた」 「追憶」 ・リスト :「ゴンドラの漕ぎ手」 ・リスト:「エステ荘の糸杉」「エステ荘の噴水」 ・R・シュトラウス :5つのピアノ小品 作品3の1 ・ドビュッシー: 「そして月は荒れた寺院に落ちる」 ・フォーレ :言葉のないロマンス 作品17の3 ・フォーレ :即興曲 作品84の5 ・グリーク :「あなたのそばに」「過ぎ去りし日々」 ・シベリウス : 「樅の木」 ・ハチャトリアン:「小さな歌」「昔のお話」 ・カバレフスキー:「手回しオルガンのおじいさんのお話」 ・ディーリアス:前奏曲 <ハワード・ジョーンズに> ・バッシュ :「想い出」 ・グリーク : 「アリエッタ」 ピアノ:久元 祐子 Producer : Tomoko Noda Balance Engineer : Tak Sakurai Mastering Engineer : Kaz Sugimoto Art Director : Yasumi Uno / Chiyoko Honma Executive Producer : Takashi Mitsukawa <プログラム・ノート> 久元 祐子 スイスは不思議な国だ。山あいの民宿に泊まったとき、のどかで美しい風景を楽しんでいたのに、朝起きてみると窓のすぐ外に巨大な戦車が停まっていて驚いたことがある。 険しい山々、そこに深く入り組んだ谷、その間に点在する村々・・・スイスの人々は、古くから自分たちの独自の世界をかたくなに守ってきたように思える。未知の魅力が、いつの時代にもこの国にはあったのではないだろうか。 フランツ・リストがパリで知り合ったマリー・ダグー伯爵夫人を伴い、スイスの街や村を訪ねたのは、1835年のことだった。礼拝堂や湖といった各地の風景がリストにインスピレーションを与え、また村々に残る民謡も、作品の題材となった。「巡礼の年 第1年<スイス>」の第8曲「ノスタルジア」では、アッペンツェル地方の羊飼いの歌が使われている。もの悲しいアルペンホルンの調べが、故郷への郷愁を呼び起こす。 フランツ・シューベルト(右の肖像画)の音楽には、何とも言えない独特の香りがある。知らない曲でもすぐにシューベルトの曲とわかるのはそのせいだろう。シューベルトは生っ粋のウィーンっ子だった。ウィーンで生まれ、ピアノを弾き、音楽を教え、実らぬ恋をし、不治の病にかかり、32年にも満たない生涯をウィーンで終えた。 しかし彼は孤独ではなかった。気のあった仲間同士で、歌曲や室内楽のコンサートを開いた。「シューベルティアーデ」と呼ばれたそんなコンサートで、シューベルトはよく即興でワルツやレントラーを弾いたという。シューベルトのワルツを弾いていると、まるで自分もそこに参加していたかのような風景が浮かんでくる。記憶を伴わないノスタルジアのような不思議な気分にとらわれる。 3曲弾かせていただいたが、「クッペルヴィーザー・ワルツ」というタイトルがついているワルツは、後に後期ロマン派の巨匠、R・シュトラウスの編曲によるもの。スコアには楽しげなシューベルティアーデの模様が描かれている。友人であった画家クッペルヴィーザーによって描かれたもので、シューベルトがピアノの前に座り、画家やほかの仲間たちがバツゲームをして楽しんでいる。 ロベルト・シューマン(左の肖像画)の「子供のためのアルバム」は、文字どおり子供のための作品だが、シューマンらしい美しさや叙情がよく出ている小品集だと思う。シューマンはこの小品集で、それまでに出会った美しい光景を回想しているのだろうか。香しい「5月」の風景や、親しかった友人のことなどを。「追憶」の自筆譜には「メンデルスゾーンの命日の想い出、1847年11月4日」と記されている。 リストの「ゴンドラを漕ぐ女」はもともとは1840年頃に作曲されたが、改作され、1861年に「巡礼の年 第2年への追加」の中に加えられた。ヴェネツィアの舟歌のリズムが心地よい。カンツォーネの旋律がもとになっているという。 エステ荘 ― ヴィラ・デステは、ローマ教皇と各地の諸侯たちが血で血を争った16世紀半ば、当時のイタリアで権勢をふるった枢機卿イッポリト・デステによって造営された。もとはベネディクト派の修道院だった建物を改築したもの。山の斜面に広がる庭園には、さまざまな意匠を凝らした大小500もの噴水が配されている。糸杉は地中海沿岸でよく見かける針葉樹。円錐形をしていて、魂が天に昇っていくようなイメージがある。エステ荘にもたくさん植えられている。 リストは1877年の夏から秋にかけてエステ荘に滞在し「エステ荘の糸杉」を作曲した。2曲あり、どちらも「哀歌」というサブタイトルがついている。今回弾くのは1曲目だが、不思議な悲しみと緊張感を湛えた曲である。 歌劇や交響詩、それに歌曲で知られるR・シュトラウスだが、初期に何曲かのピアノ曲を残している。「5つのピアノ小品 作品3」は1880年から翌年にかけて作曲された。17歳前後の作品であるが、官能的な和音に導かれる音楽は、憧れに満ちている。 次に、ガブリエル・フォーレの作品。1863年に作曲された「言葉のないロマンス 作品17」から第3曲を、また、1903年に出版された「ピアノのための小品 作品84」から第5曲を弾く。 クロード・ドビュッシーの「そして月は荒れた寺に落ちる」は、1908年に出版された「映像 第2集」の第2曲。ドビュッシーは、自然の風景を切り取り、まったく個性的な手法で音楽に移し替えることができた作曲家だ。月の光に照らし出された光景がくっきりと浮かび上がってくる。光は柔らかいのだが、時に緊張感に満ち、冴えわたっている世界だと思う。 エドヴァルアト・グリークの代表作、ピアノ協奏曲イ短調は、くっきりとした一種の絵画的な美しさが感じられるが、「叙情小曲集」には、もっと秘やかな想いや淡い記憶のようなものを感じさせてくれる作品が多い。全10巻ある作品の中から「あなたのそばに」「過ぎ去りし日々」を弾かせていただいた。淡い光の中に、過ぎ去ったシーンのひとこまが見え隠れしているようだ。 同じく北欧の作曲家、ヤン・シベリウス の「5つの小品 作品75」から「樅の木」。堂々たる音楽だと思う。大地にどっしりと根を張った樅の木の姿、そして、森の中のざわめき、木々の香り、風が梢をゆらす音などが伝わってくる。 続いて、旧ソ連の作曲家をふたり取り上げる。アダム・イリイチ・ハチャトリアンの「少年時代の画集」から「小さな歌」「昔のお話」。 ハチャトリアンはアルメニア人の作曲家。組曲「ガイーヌ」が有名だが、素敵なピアノ曲もつくっている。そしてドミトリ・ボリソヴィチ・カバレフスキーの「子供たちの夢」から「手回しオルガンのおじいさんのお話」。偉大な芸術家を夢見ながら、手回しオルガンの芸人にしかなれなかった男の哀感が伝わってくる。 イギリスの作曲家、フレデリック・ディーリアスのスコアは、ロンドンのチャリング・クロス通りの路地裏の古本屋さんで見つけたもの。「3つの前奏曲」から、「ハワード・ジョーンズに」を取り上げる。1923年の作品。何とも言えない透明感が魅力的だ。 私はこれまで3回ラトヴィアを訪れ、オーケストラと共演したり、リサイタルを開催させていただいている。バルト海に面したラトヴィアは民謡の宝庫で、日本ではあまり知られていないが、優れた音楽家を輩出している。メンドリス・バッシュは、前回訪問したときにラトヴィアの友人からいただいたスコアの中に入っていた作曲家で、1919年生まれ。その中から「Pardomas(想い出)」を弾かせていただく。北国の柔らかな光の中で、優しく過ぎ去った日々をいとおしんでいるような雰囲気がある。 最後にグリークの「叙情小曲集」から「アリエッタ」。おやすみなさい。
ピアノ:久元 祐子 Producer : Tomoko Noda Balance Engineer : Tak Sakurai Mastering Engineer : Kaz Sugimoto Art Director : Yasumi Uno / Chiyoko Honma Executive Producer : Takashi Mitsukawa <プログラム・ノート> 久元 祐子 スイスは不思議な国だ。山あいの民宿に泊まったとき、のどかで美しい風景を楽しんでいたのに、朝起きてみると窓のすぐ外に巨大な戦車が停まっていて驚いたことがある。 険しい山々、そこに深く入り組んだ谷、その間に点在する村々・・・スイスの人々は、古くから自分たちの独自の世界をかたくなに守ってきたように思える。未知の魅力が、いつの時代にもこの国にはあったのではないだろうか。 フランツ・リストがパリで知り合ったマリー・ダグー伯爵夫人を伴い、スイスの街や村を訪ねたのは、1835年のことだった。礼拝堂や湖といった各地の風景がリストにインスピレーションを与え、また村々に残る民謡も、作品の題材となった。「巡礼の年 第1年<スイス>」の第8曲「ノスタルジア」では、アッペンツェル地方の羊飼いの歌が使われている。もの悲しいアルペンホルンの調べが、故郷への郷愁を呼び起こす。 フランツ・シューベルト(右の肖像画)の音楽には、何とも言えない独特の香りがある。知らない曲でもすぐにシューベルトの曲とわかるのはそのせいだろう。シューベルトは生っ粋のウィーンっ子だった。ウィーンで生まれ、ピアノを弾き、音楽を教え、実らぬ恋をし、不治の病にかかり、32年にも満たない生涯をウィーンで終えた。 しかし彼は孤独ではなかった。気のあった仲間同士で、歌曲や室内楽のコンサートを開いた。「シューベルティアーデ」と呼ばれたそんなコンサートで、シューベルトはよく即興でワルツやレントラーを弾いたという。シューベルトのワルツを弾いていると、まるで自分もそこに参加していたかのような風景が浮かんでくる。記憶を伴わないノスタルジアのような不思議な気分にとらわれる。 3曲弾かせていただいたが、「クッペルヴィーザー・ワルツ」というタイトルがついているワルツは、後に後期ロマン派の巨匠、R・シュトラウスの編曲によるもの。スコアには楽しげなシューベルティアーデの模様が描かれている。友人であった画家クッペルヴィーザーによって描かれたもので、シューベルトがピアノの前に座り、画家やほかの仲間たちがバツゲームをして楽しんでいる。 ロベルト・シューマン(左の肖像画)の「子供のためのアルバム」は、文字どおり子供のための作品だが、シューマンらしい美しさや叙情がよく出ている小品集だと思う。シューマンはこの小品集で、それまでに出会った美しい光景を回想しているのだろうか。香しい「5月」の風景や、親しかった友人のことなどを。「追憶」の自筆譜には「メンデルスゾーンの命日の想い出、1847年11月4日」と記されている。 リストの「ゴンドラを漕ぐ女」はもともとは1840年頃に作曲されたが、改作され、1861年に「巡礼の年 第2年への追加」の中に加えられた。ヴェネツィアの舟歌のリズムが心地よい。カンツォーネの旋律がもとになっているという。 エステ荘 ― ヴィラ・デステは、ローマ教皇と各地の諸侯たちが血で血を争った16世紀半ば、当時のイタリアで権勢をふるった枢機卿イッポリト・デステによって造営された。もとはベネディクト派の修道院だった建物を改築したもの。山の斜面に広がる庭園には、さまざまな意匠を凝らした大小500もの噴水が配されている。糸杉は地中海沿岸でよく見かける針葉樹。円錐形をしていて、魂が天に昇っていくようなイメージがある。エステ荘にもたくさん植えられている。 リストは1877年の夏から秋にかけてエステ荘に滞在し「エステ荘の糸杉」を作曲した。2曲あり、どちらも「哀歌」というサブタイトルがついている。今回弾くのは1曲目だが、不思議な悲しみと緊張感を湛えた曲である。 歌劇や交響詩、それに歌曲で知られるR・シュトラウスだが、初期に何曲かのピアノ曲を残している。「5つのピアノ小品 作品3」は1880年から翌年にかけて作曲された。17歳前後の作品であるが、官能的な和音に導かれる音楽は、憧れに満ちている。 次に、ガブリエル・フォーレの作品。1863年に作曲された「言葉のないロマンス 作品17」から第3曲を、また、1903年に出版された「ピアノのための小品 作品84」から第5曲を弾く。 クロード・ドビュッシーの「そして月は荒れた寺に落ちる」は、1908年に出版された「映像 第2集」の第2曲。ドビュッシーは、自然の風景を切り取り、まったく個性的な手法で音楽に移し替えることができた作曲家だ。月の光に照らし出された光景がくっきりと浮かび上がってくる。光は柔らかいのだが、時に緊張感に満ち、冴えわたっている世界だと思う。 エドヴァルアト・グリークの代表作、ピアノ協奏曲イ短調は、くっきりとした一種の絵画的な美しさが感じられるが、「叙情小曲集」には、もっと秘やかな想いや淡い記憶のようなものを感じさせてくれる作品が多い。全10巻ある作品の中から「あなたのそばに」「過ぎ去りし日々」を弾かせていただいた。淡い光の中に、過ぎ去ったシーンのひとこまが見え隠れしているようだ。 同じく北欧の作曲家、ヤン・シベリウス の「5つの小品 作品75」から「樅の木」。堂々たる音楽だと思う。大地にどっしりと根を張った樅の木の姿、そして、森の中のざわめき、木々の香り、風が梢をゆらす音などが伝わってくる。 続いて、旧ソ連の作曲家をふたり取り上げる。アダム・イリイチ・ハチャトリアンの「少年時代の画集」から「小さな歌」「昔のお話」。 ハチャトリアンはアルメニア人の作曲家。組曲「ガイーヌ」が有名だが、素敵なピアノ曲もつくっている。そしてドミトリ・ボリソヴィチ・カバレフスキーの「子供たちの夢」から「手回しオルガンのおじいさんのお話」。偉大な芸術家を夢見ながら、手回しオルガンの芸人にしかなれなかった男の哀感が伝わってくる。 イギリスの作曲家、フレデリック・ディーリアスのスコアは、ロンドンのチャリング・クロス通りの路地裏の古本屋さんで見つけたもの。「3つの前奏曲」から、「ハワード・ジョーンズに」を取り上げる。1923年の作品。何とも言えない透明感が魅力的だ。 私はこれまで3回ラトヴィアを訪れ、オーケストラと共演したり、リサイタルを開催させていただいている。バルト海に面したラトヴィアは民謡の宝庫で、日本ではあまり知られていないが、優れた音楽家を輩出している。メンドリス・バッシュは、前回訪問したときにラトヴィアの友人からいただいたスコアの中に入っていた作曲家で、1919年生まれ。その中から「Pardomas(想い出)」を弾かせていただく。北国の柔らかな光の中で、優しく過ぎ去った日々をいとおしんでいるような雰囲気がある。 最後にグリークの「叙情小曲集」から「アリエッタ」。おやすみなさい。
2003/3/26 ワーナーミュージック・ジャパン 定価(税込み) 1000円 ・「ハリー・ポッターと賢者の石」から「ヘドウィグのテーマ」 ・「アメリ」」から「アメリのワルツ」 ・「千と千尋の神隠し」から「千と千尋の神隠しのテーマ(いのちの名前)」 ピアノ:久元 祐子 (全16曲のうち、私が弾いたのは上記の3曲です。) CD 2000 へ
ピアノ:久元 祐子 (全16曲のうち、私が弾いたのは上記の3曲です。)
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