ウィーン 5

1783.11.30 - 1787.1.8

.

モーツァルトの旅 1
モーツァルトの旅 2
モーツァルトの旅 3
モーツァルトの旅 4
ウィーン 4
ザルツブルク 11
リ ン ツ
ウィーン 5
地 図
プ ラ ハ 1
ウィーン 6
プ ラ ハ 2
ウィーン 7
ドレスデン
ライプツィヒ 1
ポツダム
ライプツィヒ 2
ベルリン
ウィーン 8
バーデン
ウィーン 9
フランクフルト 2
マインツ 2
マンハイム 3
ミュンヘン 7
ウィーン 10
プ ラ ハ 3
ウィーン 11
花開く音楽人生

1783年11月30日、モーツァルトとコンスタンツェは、ウィーンに戻りました。モーツァルトは、輝かしい作曲、演奏活動を開始します。翌1784年から1785年にかけて華々しい演奏活動が続き、1785年秋には《フィガロの結婚》の作曲が始まります。翌年このオペラはウィーンで初演。そしてその上演のため、1787年1月にプラハに招かれることになりますが、この約3年間が、モーツァルトの最も輝かしい絶頂期に当たっています。
また、モーツァルトは、1784年2月9日から作品目録をつけ始め、これ以降の作品の作曲時期はかなり明確になります。
この直後、モーツァルトは、慌ただしく、しかし自慢げにレオポルドに書き送っています。

「 ― ほとんど手紙が書けないのをお許しください。……絶対的に時間がないのです。というのは、今月の17日から四旬節の毎水曜日に3回、トラットナー邸のサロンで予約演奏会を3回開きますがこれにはもうすでに100人の予約者があり、当日までにはまだ軽く30人は集まるでしょう。 ― 入場料は全3回で6フローリンです。 ― 今年中に、おそらく2回、劇場で演奏会を開きます」(1784年3月3日付けの手紙)

モーツァルトは、1784年1月から9月まで、トラットナーの邸に住んでいます。トラットナー(Johann Thomas vonTrattner 1717 - 1798) (左の肖像画)は印刷業、出版業を営んでいましたが、その事業はかなり大規模だったようで、5つの印刷工場、8つの書店を持ち、製紙工場まであったといいます。
グラーベン通りのトラットナーホーフには大きなバルコニーがしつらえられ、階段の手摺りは彫刻で飾られていました。1階には大きな書店があり、2階より上は住居になっていて、600人の人々を受け入れることができたといいます。
建物の中にはカジノもあり、貴顕の人々が出入りしました。モーツァルトのコンサートは、このアミューズメント施設が提供する娯楽のひとつだったのかもしれません。

フリーメイスン

絶頂期にあった1784年12月14日、モーツァルトは、フリーメイスンに入会しています。博愛と慈善を掲げる結社フリーメイスンは、ロッジと呼ばれる団体に分かれていましたが、モーツァルトが加入したのは、『善行に向かって』( Zur Wohltatigkeit)というロッジでした。翌1785年の1月には第2級に進級しています。2月にはザルツブルクから父レオポルドがやってきて約2ヶ月余り滞在しますが、レオポルトもフリーメイスンに入会しています。
1784年から1785年には、カンタータ「フリーメイスンの喜び」変ホ長調(KV471)、合唱曲「親しき友よ、ようこそ」変ロ長調 KV483、「汝ら、我らが新しき指導者よ」ト長調 KV484、歌曲「自由の歌」ヘ長調 KV.506など、フリーメイスンのための作品を作曲しています。

アウガルテン
モーツァルトがウィーンで華やかな活動を始めた時期は、皇帝ヨーゼフ2世が母親である女帝マリア・テレジアの後見から解放され、自らの意志で改革に乗り出した時期と一致しています。
皇帝は、ほかの絶対君主のように自ら贅沢三昧の宮廷生活をするのではなく、国民への奉仕に心がけたようです。
皇帝の庭園であったアウガルテン(右の絵)を市民に開放したのもそのささやかな一例かも知れません。アウガルテンの宮殿や庭園では、コンサートが頻繁に開かれ、多くの貴族や市民が音楽を楽しみました。
モーツァルトもここでしばしばコンサートを開催しています。
《フィガロの結婚》
モーツァルトの音楽人生のハイライトのひとつは、オペラ《フィガロの結婚》の作曲、上演です。
《フィガロの結婚》は、1785年10月末から作曲が開始され、翌1786年4月29日に完成しています。この名作についてあらためて触れる必要はないのかもしれませんが、この時期、モーツァルトは、ザルツブルクの父レオポルトと交わす手紙が少なくなり、またそれらもかなり失われていますので、《フィガロの結婚》に関するモーツァルト側の一次資料はかなり乏しいようです。
原作はボーマルシェの喜劇ですが、ウィーンでは上演禁止となっていたため、ダ・ポンテが原作から政治色を極力取り除き、ヨーゼフ2世の許可を得て上演にこぎつけました。
ロレンツォ・ダ・ポンテ(Lorenzo Da Ponte, 1749 - 1838)はヴェネト州のユダヤ人の家系に生まれたイタリア人です。本名は、エマヌエレ・コネリアーノ(Emanuele Conegliano)。ユダヤ教からキリスト教に改宗し、洗礼を行った司教の名を名乗り、ロレンツォ・ダ・ポンテと名乗りました。
ヴェネツィアで聖職に就きますが、数々の問題を起こして追放され、ウィーンに移り住みます。
ウィーンで頭角を顕し、アントニオ・サリエリの助けも得て、台本作家として活躍するようになりました。ヨーゼフ2世の宮廷で詩人として活躍しますが、ウィーンで人気がなくなると、アメリカに渡り、モーツァルトとは対照的に長寿を全うしました。
私は、『モーツァルト殺人法廷』の新聞批評を依頼されてこの本を読みましたが、ダ・ポンテも登場。あらためてスケールの大きな生涯に感銘を覚えました。

次 へ

top