マンハイム 1

1777.10.30 - 1778.3.14

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モーツァルトの旅 1
モーツァルトの旅 2
モーツァルトの旅 3
ザルツブルク 5
ヴェロナ 3
ミ ラ ノ 3
ザルツブルク 6
ボルツァーノ 2
ミ ラ ノ 4
ヴェロナ 4
ザルツブルク 7
ウィーン 3
ザルツブルク 8
ミュンヘン 3
ザルツブルク 9
ミュンヘン 4
アウグスブルク 2
マンハイム 1
パ リ 4
サン・ジェルマン
パ リ 5
ナンシー
ストラスブール
マンハイム 2
カイスハイム
ミュンヘン 5
ザルツブルク 10
ミュンヘン 6
モーツァルトの旅 4
半年滞在
モーツァルトは、次に訪れたマンハイムで、1777年秋から翌1778年春まで、約半年滞在します。
この地は、当時のヨーロッパにおける音楽の中心のひとつで、マンハイム出身の音楽家たちはパリのコンセール・スピリチュエルなど各地で活躍していました。
当時マンハイム音楽の中心人物が、ヴァイオリニストでフルート奏者でもあったクリスティアン・カンナビッヒでした。モーツァルトは毎日のようにカンナビッヒの家を訪れ、一緒に演奏したり、食事をごちそうになり、ときには夜中まで馬鹿騒ぎをしています。また、娘ローザのために、ハ長調K309のクラヴィーア・ソナタを書き残しました。
カンナビッヒは多くの交響曲、室内楽曲を残し、とりわけ指揮者として知られていましたが、彼の交響曲を聴きますと、作曲家としても一流だったことがわかります。
モーツァルトはこのマンハイムに約半年間滞在しました。
写譜師の娘、アロイジア・ウェーバー嬢(右上の肖像画)との恋愛とこれに起因するレオポルドとの葛藤など、青年モーツァルトにとってはほろ苦い思い出に彩られていることは広く紹介されているとおりです。
選帝侯カール・テオドール
マンハイムは、ライン川とネッカー川が合流する地点に開けた都市です。19世紀以降あまり歴史の舞台に登場することはありませんでしたが、18世紀の初め、当時のプファルツ選帝候カール・フィリップが宮殿をハイデルベルクからこのマンハイムに移してから、ドイツの文化の大きな中心として栄え、モーツァルトが訪れた時期は、選帝候カール・テオドールのもとにその絶頂期にあたっていました。
カール・テオドールは音楽を愛好し、宮廷オーケストラはその優れた演奏能力でヨーロッパ中に知られていました。
楽団員たちの給料は、群を抜いて高かったようです。
マンハイムの壮麗な宮殿(上の写真)も屈指のものでしたが、一般庶民の暮らしは悲惨だったようです。ほぼ同じ時代、1772年にマンハイムを訪れたチャールズ・バーニーは、次のように記しています。

"The expence and magnificence of the court of this little city are prodigious ; the palace and offices extend over almost half the town; and one half of the inhabitants, who are in office, prey on the other, who seem to be in the utmoft indigence."

1777年12月の暮れ、ミュンヘンのバイエルン選帝侯マクシミリアン・ヨーゼフ3世が死ぬと、カール・テオドールは直ちにミュンヘンに赴き、バイエルン選帝侯を兼ねる布告を発しています。モーツァルトは、ミュンヘンでの就職に期待しますが、これもむなしい結果におわりました。

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