パ リ  1

1763.11.18 - 12.24

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モーツァルトの旅 1
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モーツァルトの旅 2
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ルイ15世
モーツァルト一家は、ブリュッセルを発った3日後の1763年11月19日、パリに到着しました。
当時のフランス国王は、ブルボン王家のルイ15世(Louis XV 1710 - 1774、在位:1715 - 1774)。曾祖父ルイ14世の死後、5歳で即位しました。ポンパドゥール夫人をはじめ数え切れない愛人を持ち、国政に関心を示さなかったと言われます。
モーツァルト一家がフランスを訪れたのは、華やかなヴェルサイユ宮殿に象徴されるフランス絶対王政が、最後の輝きを見せ、同時に、あちこちでほころびを見せ始めていた頃でした。
そのような中、パリは、当時、思想、ファッションなどあらゆる面でヨーロッパ文化をリードする国際都市でした。

最大の音楽都市

パリは、同時に、ロンドンと並ぶヨーロッパ最大の音楽都市でした。この国際的な都市パリには、イタリアのみならずドイツ、チェコ、スペインなどヨーロッパ各地から音楽家たちが集まってきていました。
さまざまな音楽家の手になるオペラが連日のように上演され、また宗教音楽や器楽音楽も盛んに演奏されていました。とりわけ18世紀の初めに起源を持つ公開演奏会 ― コンセール・スピリチュエルでは、さまざまな形態のプログラムにより、交響曲、協奏曲、室内楽などの器楽音楽が頻繁に演奏されていました。(下の絵は、コンセール・スピリチュエルの会場となっていた、テュイルリー宮殿)

当時のパリは、たいへん活気のある街だったようです。ちょうど七年戦争も終わり、敵対関係が終わったイギリスをはじめ外国からの来訪も多く、外国人が宿を見つけるのも大変だったようです。駅馬車などで混雑していたことでしょう。
幸いモーツァルト一家は、バイエルン大使のヴァン・アイク伯爵の館に逗留し、歓待してもらっています。ここの館には夫人愛用のフリューゲルもあり、自由に使うことができました。
光り輝くパリの街には陰の部分もあったようです。七年戦争も終わったばかりで、街には傷ついた人も目立ちました。衛生状態も悪かったようで、とくにセーヌ川から取っている水を飲んだ外国人は必ず下痢をしたと言われています。モーツァルト一家も例外ではありませんでした。

メルヒオール・グリム
モーツァルトたちは、さっそくパリの有力者にたくさん会っていますが、その中でも最も重要な人物が、フリードリッヒ・メルヒオール・グリム(Frierich Melchior Grimm, 1723-1807) です。
彼は、レーゲンスブルク(右の写真)出身のドイツ人で、百科全書派とも親しく、ドイツのいくつかの国や都市の大使をパリで務めていました。彼は、音楽理論にも詳しく、1753年から毎月二回「文芸通信」を刊行し、これは広く海外の知識人にも読まれていました。
その中にはパリでの演奏批評もよく掲載されており、モーツァルトとナンネルの演奏についても詳しく書き記しています。
グリムは有力な人脈をたくさん持っていたようで、モーツァルト一家をあちこちに紹介してくれました。14年後に、青年となったモーツァルトもパリでグリムに世話になりますが、最後は気まずい思いで別れることになります。

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