ハーツ室内合奏団 コンサート   
2002年 11 月 20 日(土) 18:00   三鷹市芸術文化センター 
Program note

  
2010.4.6
2008.9.1
2008.4.15
2007.7.31
2006.9.30
2006.4.22
2005.9.13
2004.9.1
2003.10.29
2003.5.31
2002.11.20
2002.5.9




W.A.モーツァルト : ピアノ協奏曲 第1番 ヘ長調 KV37
   第1楽章  Allegro ヘ長調   4/4
   第2楽章  Andante ハ長調  3/4
   第3楽章  Allegro ヘ長調  3/4
  

W.A.モーツァルト : ピアノ協奏曲 第9番 変ホ長調 KV271   
  第1楽章  Allegro 変ホ長調   4/4
  第2楽章  Andantino ハ短調   3/4  
  第3楽章  Presto 変ホ長調   2/2


W.A.モーツァルト : 交響曲 第40番 ト短調     
  第1楽章 Allegro vivace 
  第2楽章 Andante cantabile 
  第3楽章 Menuetto : Allegretto 
  第4楽章 Allegro molto 


ハーツ室内合奏団   指揮:大澤 健一  ピアノ : 久元 祐子



<プログラム・ノート>    久元 祐子
モーツァルトのピアノ協奏曲

 モーツァルトの天才がもっとも発揮されたジャンルは、オペラとピアノ協奏曲だと思う。
同じ古典派の巨匠、ハイドンと比較すれば、シンフォニーやカルテットでは人によって意見が分かれるだろうが、オペラとピアノ協奏曲の分野におけるモーツァルトの優位は動かしがたい。
ピアノ協奏曲の分野において、モーツァルトは音楽形式と芸術的内容の両面で画期的な足跡を残した。こんにち広く演奏されているこの音楽様式は、実質的にはモーツァルトによって創造されたと言っても過言ではない。
18世紀のコンサート鍵盤楽器と管弦楽が合奏するクラヴィーア協奏曲という音楽様式は、バロック時代から存在した。大バッハはいくつかのチェンバロ協奏曲を書いているし、チェンバロが独奏楽器として活躍するブランデンブルク協奏曲第5番は、実質的には一種のチェンバロ協奏曲とも言える。大バッハの息子であるカール・フィリップ・エマヌエル・バッハヨハン・クリスティアン・バッハは、それぞれの美学と流儀にもとづいてチェンバロ協奏曲を残した。
モーツァルトは、それまでから存在していたこのジャンルに、大きな変革をもたらしたが、その重要なポイントの一つは、クラヴィーアで弾かれるソロの重みが圧倒的に増したという点である。
モーツァルトは、ソロをオーケストラと対峙させ、ときには鋭く対立させる手法を取り入れた。ソロは今やオーケストラと対等、ときにはそれ以上の存在感を示して雄弁に語り、音楽の流れをリードし、劇的な表現力を持って聴き手に迫るようになった。このような要素は、モーツァルトがクラヴィーア奏者として際だった才能を持っていたからであり、演奏家としても作曲家としてもクラヴィーアの可能性を知り尽くしていたからはじめて可能になったと考えられる。
またモーツァルトは、クラヴィーア協奏曲の中にオペラの要素を持ち込んだ。ソリストは、まるでプリマ・ドンナのような役割を与えられ、ステージの上で聴き手の注目を一身に浴びるようになった。ソリストが奏でる音楽はその存在感を示すとともに、協奏曲という劇全体の中に位置づけられている。こうしてクラヴィーアのソロは圧倒的な存在感を示しながら、オーケストラとの間で対立し、溶けあい、補い合い、対話を交わす。
しかもモーツァルトは、オーケストレーションの中でそれぞれの楽器に独自の役割を与えた。フルートが、クラリネットが、オーボエが、クラヴィーアとの間でさまざまな会話をかわす。まるでオペラの中の二重唱や三重唱のように。モーツァルトのミサ、モテットなどの宗教曲では、ソリストの活躍が重視されており、オペラの応用と考えられるが、クラヴィーア協奏曲においてもオペラの手法が持ち込まれているのである。
このようにしてモーツァルトは、クラヴィーア協奏曲の中に、多彩でドラマチックな要素をふんだんに持ち込んだ。しかしモーツァルトは力で聴き手をねじ伏せることはしないし、過度な感情表現を濫用したりすることもない。そこに表現されている劇的な世界は、喜びとか悲しみとか興奮とか言った単色の感情ではなく、言語化が不可能な、複雑で不思議な情感を湛えている。それは音楽芸術が到達したもっとも優れたものであるといって過言ではないだろう。
モーツァルトは、クラヴィーア協奏曲の分野において、器楽音楽における自らの音楽的理想を達成したように思える。それは、クラヴィーアに関する演奏家、作曲家としての天才的才能を、オーケストラとの結合によってより大きく、豊かに開花させることができたからである。そこにはオペラ作曲家としての才能のみならず、シンフォニー作曲家としての手腕も十二分に生かされており、ここに、モーツァルトのあらゆる才能が結集して見事な芸術作品に結晶したのである。
モーツァルトが使った楽器は、このサイトのあちこちでも触れたように、初期はチェンバロで、やがてピアノフォルテになり、今日の演奏慣行では、ピアノ協奏曲として演奏される。
 

モーツァルト:ピアノ協奏曲 第1番 ヘ長調 KV37
 もちろんモーツァルトのような天才と言えども、真に優れた作品群が生まれるためには、一定の学習と試行錯誤が必要だった。
それはほかの作曲家の編曲から始まった。1763年から1766年にかけての、足かけ4年にわたる神童時代の大旅行の中で、モーツァルトはたくさんの優れた音楽家たちと出会い、影響を受けるが、ザルツブルクに戻ってからは、これらの作品の研究と分析に没頭した。
少年作曲家が気に入ったのは、パリで知るところとなったヘルマン・フリードリヒ・ラウパッハ、ヨハン・ショーベルトヨハン・ゴットフリート・エッカルト ロレンツィ・ホーナウアーの作品、そしてロンドンで知り合ったヨハン・クリスティアン・バッハの作品だったようだ。
モーツァルトは、ザルツブルクに帰着した翌年の1767年春には、4曲のクラヴィーア・コンチェルト ― へ長調 KV37、変ロ長調 KV39、ニ長調 KV40、ト長調 KV41 ― を作曲するが、これらは、大旅行で知ったほかの作曲家による作品をを編曲したものである。ザルツブルク、そしてこの作品を披露することを予定していたウィーンでは、いまだピアノフォルテは普及しておらず、楽器としてはチェンバロが想定されていた。
今回弾かせていただく、第1番ヘ長調 KV37は、第1楽章がヘルマン・フリードリヒ・ラウパッハ(H. F. Raupach, 1728 - 78)のソナタ作品1の5の第1楽章、第3楽章が ロレンツィ・ホナウアー(L. Honauer, 1735 -?)のソナタ作品2の3の第1楽章の編曲である。第2楽章の原曲はわかっていない。
ラウパッハは北ドイツ生まれのドイツ人作曲家で、ロシアのサンクト・ペテルブルクで活躍し、この地で没している。ラウパッハのクラヴィーア・ソナタは、1765年から67年にかけてパリで出版されており、モーツァルト一家がパリを訪れた時期に当たっている。パリで書かれたレオポルトの手紙の中にはラウパッハの名前はなく、モーツァルトとは面識はなかったと考えられる。
ホナウアー は、ストラスブール出身で、遅くとも1761年にはパリに出てきて演奏活動を始めている。レオポルトの手紙にその名前が出てくるので、モーツァルト一家とは面識があったと考えられる。当時の評価は、エッカルトやショーベルト、そしてラウパッハよりも一段低かったようで、チャールズ・バーニーの「音楽史」にも名前は出てこない。

3つの楽章にカデンツァを弾く場所がある。私は、リリー・クラウスの残したカデンツァを基本としつつ、これらをよりシンプルにしたものを用意したいと思っている。
◇モーツァルト:ピアノ協奏曲 第9番 変ホ長調 KV271

他人の編曲ではないモーツァルトのオリジナルのクラヴィーア協奏曲は、1773年に作曲されたニ長調 KV175 が最初で、ザルツブルク時代には、全部で6曲が作曲されている。その中で1777年初め、20歳のときに生み出された変ホ長調 KV271は、一頭地を抜いており、屹立しているとさえ言える名曲である。
冒頭では、オーケストラがトゥッティでテーマの動機の前半を奏すると、ソロが後半を弾く。このときオーケストラは沈黙し、否が応でも、ソロの突然の登場は、聴き手の耳をソロに向けさせる。その対比は強烈である。
そしてオーケストラが提示部を奏し、ソロが入るときには、ふつうのやり方ではソロは提示部のテーマをなぞることになるのだが、この曲ではオーケストラがまだ提示部を奏している間にソロは意表を突くようにトリルで侵入し、その存在感をアピールする。そしてその後の流れの中では、ソロはオーケストラには出てこないモティーフを弾いたりして緊張感を孕みながら、またときには呼応しながら、変化に富んだ、生き生きとした音楽がつくられていく。
ハ短調の第2楽章は、より際だった個性を示している。ヴァイオリンが低音で悲しみを湛えたテーマを奏でるが、ピアノ・ソロはやはりこのテーマをなぞるのではなく、オーケストラが冒頭のテーマを奏でる中を、異なる旋律を歌う。対立の構図なのだが、このテーマの原型は実はオーケストラのテーマの中にある。この辺の対立と統一の調和は実に見事だ。
第3楽章は自在な運動性をはらんだロンドだが、かなり大規模につくられており、2回のカデンツァをはさんで、中間部にはメヌエットが挿入されている。ウィーン時代の名作、同じ変ホ長調KV482を先取りしているが、KV271の方がよりエネルギーと動きにあふれた音楽となっている。
このようにKV271は、いろいろな意味で画期的な作品であり、青春時代を代表する名作といってもよいが、スコアから読みとれることがら以外には分からないことが多い。この作品には、《ジュノム》という愛称がついていて、たいていの解説には、「当時ザルツブルクを訪れたフランス人ピアニスト、ジュノム嬢のために作曲された」といった説明が書かれている。
しかし、モーツァルトやレオポルトの手紙にはこのような令嬢の名前は出てこないし、「ジュノム嬢」やそのザルツブルク訪問についての記録もないようだ。吉成順氏は、「ジュノム嬢」という令嬢の名前が初めて出てくるのは、アルフレート・アインシュタインが編纂したケッヘルの第3版であることを指摘し、後世の創造物であった可能性を示唆しているがているが(青土社「ユリイカ」1991年8月臨時増刊号)、このような令嬢はそもそも存在しなかったという見方にはじゅうぶんな説得力があるように思える。いずれにしても、フランス人の可愛い令嬢を思い浮かべてこの曲を弾いても、イメージを膨らませる上で何の役にも立たないことは確かである。
また、KV271で想定されていた楽器がチェンバロだったのかピアノフォルテだったのかも定かではない。ザルツブルクにはじめてピアノフォルテが入ったのは、1775年のことと考えられており、この曲が作曲された時点ではすでにピアノフォルテはあったのだが、この作品はこの小型のピアノフォルテで弾かれるにはあまりにもスケールが大きく、ディナーミクを含めダイナミックな音楽に仕上がっており、チェンバロやこの小型のピアノフォルテを想定して作曲されたかどうかはわからない。モーツァルトがマンハイム・パリ旅行に出発するまでにザルツブルクで作曲したクラヴィーア曲は主としてチェンバロが想定されていたことが窺えるが、この曲だけが異質な様相を示している。いずれにしてもいろいろな意味で謎の多い名曲である。
カデンツァについて一言。モーツァルトのピアノ協奏曲にはモーツァルト自身のカデンツァが残されていない曲も多いが、この曲にはモーツァルトの複数のカデンツァ、アインガングが残されており、私も当日モーツァルトによるカデンツァ、アインガングを弾かせていただくことにしている。

2002.5.9 へ