クラヴィーア -楽器について- 

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クラヴィーア ― 楽器ついて ―

ピアノ・ソナタなどモーツァルトのピアノ曲は、ピアノ・リサイタルの人気プログラムで、リサイタルではベーゼンドルファー、ヤマハ、スタインウェイなど現代のグランドピアノが使われます。ピアノは、1700年前後にクリストーフォリによって発明されて以来、150年あまりの歳月をかけて徐々に進化し、19世紀の半ばに現代のグランドピアとほぼ同じ楽器に到達しました。
モーツァルトが生きた18世紀後半の時代、使われていた楽器はまだ現代のピアノとは大きく異なっていました。

モーツァルトが活躍した18世紀後半は、鍵盤音楽の交替の時期に当たっていました。
バロック時代以前から長く使われていたチェンバロは徐々にすたれ、新しい楽器であるピアノフォルテにとって替わられていきました。また、ドイツを中心に、小型でよりパーソナルな楽器であるクラヴィコードも使われていました。
当時のドイツ語圏の人々は、主にこの3種類の鍵盤楽器を「クラヴィーア」(clavier)と呼んでいました。
したがって、この言葉が使われるとき、3種類の楽器の中でどれを指しているのかを、時代や地域、文脈によって読みとる必要があるわけです。
モーツァルトはまさにこの鍵盤楽器の交替の時代を生きました。楽器に大きな関心を寄せていたモーツァルトは、この交替がどのように進行していったのかに立ち会った、重要な証人でもあったわけです。そしてモーツァルトの「ピアノ作品」を現代のピアノで演奏するとき、もともとその作品がどのような楽器を想定してつくられたのかを考えることは、演奏解釈上のひとつの手がかりになると思います。

撥弦鍵盤楽器

神童時代に行われた西方への大旅行、また、十代半ばに行われたイタリア旅行中にはモーツァルト父子によって膨大な手紙が書かれ、それらの中に「クラヴィーア」という言葉がたくさん出てきますが、これらはまずほとんど(100%と言ってもいいかもしれませんが)チェンバロを指していたことははっきりしています。
しかし、時代が下ると事情が変わってきます。
一例を挙げると、1777年秋、モーツァルトは母マリア・アンナとともに西方への旅に出ますが、出発したばかりの頃立ち寄ったミュンヘンで、次のように書き送っています。

「アルベルトさんのよろこびようはぼくにはうまく言い表せません。彼はほんとうに誠実な人で、ぼくらのとてもよい友人です。到着してから食事の時間まで、ぼくはずっとクラヴィーアに向かっていました。」(1777年9月26日付け。モーツァルト書簡全集V白水社p48)
(nach meiner ankunst war ich bis zum essen=Zeit immer beym Clavier.)

この「クラヴィーア」がチェンバロかピアノフォルテかが問題になるのですが、1777年にはミュンヘンではかなりピアノフォルテが普及していたことがわかっており、おそらくこの「クラヴィーア」は、ピアノフォルテを指すと考えられるわけです。


チェンバロ 1