作品メモ・前書き 

Sonata
Variation

<モーツァルトのクラヴィーア・ソナタ>

クラヴィーアのための独奏曲の中心は、クラヴィーア・ソナタであり、18曲が残されている。
モーツァルトのピアノ・ソナタは、モーツァルトの作品全体の中でも人気のあるジャンルに属するが、モーツァルトがこの分野をあまり重視していなかったことははっきりしている。オペラやシンフォニー、コンチェルトについて多くの言葉を書き残しているモーツァルトだが、クラヴィーア・ソナタにはあまり言及していない。モーツァルトは聴衆の反応を重視したが、当時は今日のピアノ・リサイタルのような演奏慣行はなく、モーツァルトが自作のクラヴィーア・ソナタをコンサートで弾いて喝采を浴びるということはほとんどなかった。
モーツァルトがこれらのソナタを作曲した目的は出版にあった。パリやウィーンなど当時の先進的な大都会では、クラヴィーアを弾く愛好家はたくさんおり、愛好家たちによって弾かれる作品が待ち望まれていた。生前出版されなかった作品もあるが、それはモーツァルトにとっては不本意なことだったことだろう。
クラヴィーア・ソナタの中には、単に出版だけではなく、特定の弟子や愛好家のために作曲されたソナタもある。ミュンヘンでデュルニッツ男爵のために書かれたニ長調 KV 284、ウィーンでトラットナー夫人のために書かれたハ短調 KV 457などである。モーツァルトはどちらも注文主の技量を考えて創ったようで、ほかの作品よりもテクニック的に難しいものとなっている。
クラヴィーア・ソナタの最初のグループは、19歳にミュンヘンで書かれた6曲である。6曲の中の最後のソナタがデュルニッツ男爵のためにつくられた作品で、この曲だけが、後にウィーンで出版されている。
その後、マンハイム・パリ旅行中には、マンハイムで2曲が、パリで1曲のクラヴィーア・ソナタがつくられている。パリで作曲されたイ短調 KV 310のソナタは、かなりユニークな作風を示しており、謎に包まれた作品である。ザルツブルクでは1曲のクラヴィーア・ソナタもつくられていないことが目を引く。
ウィーンに移り住んでからは9曲のクラヴィーア・ソナタが作曲されているが、初期につくられた KV 330から KV 333までの4曲は、以前はパリで作曲されたと考えられていた作品である。モーツァルトの自筆譜の科学的な分析の結果、作曲年代はウィーン時代の初期に変更されたが、このような作曲年代の変更という事態が生じるのも、その一因はモーツァルトがクラヴィーア・ソナタについてほとんど書き残していないからである。
ウィーンでつくられた残りのソナタも、今日における知名度や演奏頻度の割には作曲の動機などわかっていないことが多い。もちろん、モーツァルトの作曲意図はともかく、いずれも名曲ぞろいである。
モーツァルトのクラヴィーア・ソナタは、十八曲すべてが三楽章形式で書かれていることが特徴である。18世紀後半に作曲されたクラヴィーア・ソナタは、必ずしも三楽章形式に限られるわけではなく、二楽章、四楽章、あるいは少数ながら単一楽章や五楽章以上のソナタも存在した。例えば、ハイドンのソナタには二楽章形式のものも結構あるし、モーツァルトにも大きな影響を与えたヨハン・クリスチャン・バッハのソナタは、その多くが二楽章形式で書かれている。
三つの楽章の配置はそれぞれ異なっており、例外もあるが、その基本は、ソナタ形式で書かれた速い第一楽章、緩やかな第二楽章、ソナタ形式またはロンド形式で書かれた速い第三楽章、というスタイルが多い。モーツァルトのピアノ・ソナタでは、このような形式を踏み外すことなく、その形式に則りながら、それぞれの作品は多様な個性を放っていることが大きな魅力となっている。

<最初のクラヴィーア・ソナタ>

モーツァルトが最初に作曲したクラヴィーア・ソナタのグループがこの6曲である。 もっとも、モーツァルトがこれらのソナタを作曲する以前において、幾つかのクラヴィーア・ソナタを書いていたことは、記録に残っている。それらのスコアは失われてしまったので、これらの6曲が最初のクラヴィーア・ソナタということになるわけである。
モーツァルトは、1774年12月から、父レオポルドとともにミュンヘンに滞在し、翌年1月13日にオペラ《偽の女庭師》を初演するが、この6曲のソナタは、このミュンヘン滞在中に作曲されたと考えられている。
もっとも、作曲の時期や動機は明らかではない。レオポルトは、ミュンヘンからナンネルに宛てて「ヴォルフガングのいくつかのソナタをミュンヘンに持ってくるように」命じているが、もしこの「いくつかのソナタ」が6曲のクラヴィーア・ソナタを指すとしたら、スケッチはザルツブルクにいたときにすでにできあがっていたことになる。また、6曲のうち、デュルニッツ男爵のために作曲された最後のニ長調のソナタとほかの5曲の作風があまりにも違うので、作曲時期も違っているのではないかという見方も唱えられてきた。
近年の自筆譜の研究の結果、6曲の作曲時期はほぼ同じで、オペラの上演から3月までの間に作曲されたという説が有力で、多くの研究者もこの説に賛同している。
また、これらのソナタがどのような楽器を想定していたのかも明らかではない。1775年前後のザルツブルクでは、使われていたクラヴィーアはチェンバロだったと考えられているが、この時期、ミュンヘンには、ピアノフォルテもかなり普及していたようで、モーツァルトは、ピアノフォルテをも想定して、これらのソナタを作曲したと考えられている。私も弾いていてそのように思うが、鍵盤上で微妙にタッチを変えられる鍵盤楽器であるクラヴィコードで弾かれたこともあり得ると思う。
これらのクラヴィーア・ソナタに対する評価は、モーツァルトの作品の中であまりは高い方ではなく、例えばアインシュタインは、「モーツァルトは完全に自分自身になりきっていない。彼は再び自分自身を発見しなければならない。」と手厳しいが、果たしてどうだろうか。

クラヴィーア・ソナタ 1