パウル・バドゥーラ=スコダ 

Paul Badura Skoda   1927 -

演奏に関する「箴言」

はじめに
クヴァンツ
テュルク
C.バーニー
L・モーツァルト
スタンダール
R.シューマン
C.ドビュッシー
フィッシャー
ゲオン
ランドフスカ 
ザウアー
スコダ
ブレンデル
武満 徹
C.ローゼン
浅田 彰

Paul Badura Skoda


ウィーン生まれのピアニスト。ウィーン音楽院に学び、エトヴィン・フィッシャーの指導を受ける。現代ピアノ、ピアノフォルテの両方でかなり多くの録音を残している。モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの演奏に定評がある。音楽学者でもあり、エヴァ夫人との共著『モーツァルト 演奏法と解釈』(邦訳は1963年に出版)は、モーツァルトのピアノ演奏に関する、我が国でも有力な手引書となっている。イェルク・デームス、フリードリヒ・グルダとともに、「ウィーン三羽烏」と称されることがある。たびたび訪日して各地でコンサートを開催し、ファンも多い。
はじめにはっきりさせておかねばならないのは、
作品に忠実であること (Werktreue) を、楽譜に忠実であること (Notentreue) と混同してはならないということである。
古典時代の作品は、演奏者にある程度の自由を許すのみか、それを要求しているのである。
表現の乏しい、乾燥した演奏は、まちがいなく彼らの考えたものではなかったのである。

エヴァ+パウル・バドゥーラ=スコダ

この指摘は、モーツァルトを演奏するときの出発点になると思います。
楽譜に厳格に固執する考え方は今日なお有力ですが、このコーナーでも引用している18世紀後半の音楽家たちの言葉、また、モーツァルト自身の手紙などから見ても、スコダの指摘はそのとおりだと思います。
われわれの前の世代は、楽器や技法上の新業績を最上のものとみなしたが、われわれはこのような誤りを犯さないようにするとともに、他方では、過去の楽器や音響に対し健全な批判的態度を失ってはならない。
古いものをすべて、古いがゆえに美しいとみることは、過去の芸術に対し今日の美的尺度を無批判に利用するということと同様に間違っている。
追創造たる演奏というものは、歴史的知識と現代の感情世界との間に妥協点を見いだすという課題を常に負っているのである。

エヴァ+パウル・バドゥーラ=スコダ

このような態度を折衷的と批判する立場もあり得ると思いますが、再現芸術の宿命であり、私は個人的には賛成です。
モーツァルトがディナーミクの記号としてだいたい f と p しか用いなかったということは、単に簡便のために行なったのではないことはいうまでもない。
彼のディナーミクは、だいたいその時代の多くの作曲家たちと同様、それ自体むしろ色彩としての指示でもあった。
ピアノとフォルテは、その当時の美学のいわゆる「光と陰」のように対照的におかれたのである。まさにコントラストこそモーツァルトにおいて典型的なものであり、これを曖昧にしてはならないのである。

エヴァ+パウル・バドゥーラ=スコダ

ピアノとフォルテが「光と影」である、ということは、レオポルト・モーツァルトやクヴァンツも言っているところです。そしてこれが対比である以上、曖昧になっていはいけないことは当然のことです。
しかし、その対比は、物理的な強さの対比ではなく、もっと微妙な心理的な意味も含めたところでの対比として捉えられていたということが、この比喩のいわんとしているところなのでしょう。

ディナーミクの漸次進行は、一般にモーツァルトの演奏においては、今日耳にするよりもはるかにまれなものであった。
そしてそれが行われるときには、モーツァルトによってはっきりと「クレッシェンド」または「デクレッシェンド」と記されている。
18世紀にマンハイム楽派によって行われた長いクレッシェンドの効果を、モーツァルトはまれにしか用いず、いったん用いるとなればきちんといつも指示したのである。

エヴァ+パウル・バドゥーラ=スコダ

モーツァルトにおけるディナーミクの変化が基本的に対比であることは、ほかのジャンルの曲を聴いてもそうだろうと思います。
過剰なディナーミクの変化がモーツァルトの音楽を損なうことは確かでしょう。
ただ、スコダ夫妻のように言い切れるのかどうかはよくわかりません。このスコダの警告をあまりに厳格に受け取ってしまうと、ときとして演奏から生気が失われるおそれがあるのかもしれません。 

(引用文献)エヴァ+パウル・バドゥーラ・スコダ 《モーツァルト 演奏法と解釈》 
       渡辺護 訳(音楽之友社)

top